2020-08-13 母を看取った後の日本滞在日記

7月初旬に日本に帰国して以来初めて友人と会った。彼は、わたしが滞在している市まで会いに来てくれた。わたしは、在宅緩和ケア医師である彼を相手に、母の看取りと見送りについてたくさん話した。そうして、自分が今とても満たされていること、さらに、母の死を通してわたしの中の何かが仕上がりに向かっていることを実感した。…

2020-08-13 母を看取った後の日本滞在日記

日本に帰国する前から、鳥が人の身体から一羽ずつ羽ばたいていくイメージが繰り返し頭の中に浮かび続けていた。終末期のせん妄がはじまった母が、突然天井を指さして「あんなところに鳥がおる」と言ったことがあった。「鳥、飛んでる?」「ううん」「じゃあ、そこにとまってるんやね」と言葉を交わしながら、わたしは彼女が見ただろうビジョンを共に味わった。あの体験を通してわたしは、目には見えないところ、形にはならないところで、彼女と響きあっているのを感じた。 ささやかな出来事だったけれど、母の看取りの中で最も印象に残っていること。…

2020-08-11 母を看取った後の日本滞在日記

たとえば「それでも家族なんだから」と言われても、「だから、何?」というだけだ。家や家族(ひいては社会、国民、国家など)といった都合のいい幻想の共有を強いられるのはごめんだ。そんなものに巻き込まれてたまるもんか。わたしが自分を作って自分を生きるのを妨げるものは、要らない。それだけだ。…

2020-08-11 母を看取った後の日本滞在日記

わたしがなんとなく近くに感じる人たちは、実際に顔を合わせるかどうかといった物理的な接触の有無や距離にはとらわれない人たちだと改めて気づいた。中には、一度も会ったことがない人もいる。それでも、通じている、響きあっている、と感じている。さらい言えば、相手が自分のことを知らなくたっていいし、相手が既に死んでいたっていいのだ。互いが肉体・個体として地上世界で出会うことはなくても、エーテル的に響きあっていれば、十分に通じあえるし、受け取ったり受け渡したりすることもできる。…

2020-08-09 母を看取った後の日記

母の死を機に、わたしがなぜ10代の頃からずっと”家”から逃げ続けてきたのかが改めてわかった。わたしは「自分」を作りたかったのだ。 思春期の頃から「ここ(家や家系、その周辺の社会)にいたら自分は死んでしまう」と感じていた。ずっと、家族を含むあらゆる関係から脱したかった。あれはおそらく「ここに留まっていては『自分』を作ることはできない」と感じていたのだろう。…

2020‐08‐07 母を看取った後の日記

母が飼っていた柴犬”さくら”は、同じ建物内で暮らしている伯父家族が世話をすることになった。一時はわたしがチェコへ連れて行くことで話が纏まり、手順を調べたり、犬を飼える家を探したりもしていたが、母のパートナーや伯父家族の意向と、さくらの年齢と様子から、多分この場所に残る方がいいだろうと判断した。 母の生前、さくらは夕方の散歩を終えた後は、2階にある母と母のパートナーが暮らす家の中で夜を過ごしていたが、今後は昼も夜も1階のガレージ内にある犬小屋で過ごすことになった。初めて彼女を屋外で過ごさせた夜はかなり心配したが、どうやら彼女は状況を察して、変化を受け入れているように見える。 以前は一時帰国するたびに、毎日散歩に連れて行き、シャンプーをしたり、犬小屋や身の回りのものをきれいにしたりと、あれこれ世話をしてきたが、伯父家族に世話をしてもらうことが決まってからは、さくら自身の混乱を避けるためにも、わたしは彼女にあまり手をかけないようにしている。 それでも彼女は、わたしを見かけると静かに近づいてきて、わたしの足元に座り込み、ぴたりと身体を寄せてくる。わたしも彼女の傍にしゃがみこんで、何も言わ…

2020‐08‐06 母を看取った後の日記

ピンホール写真を撮りたい。特別な場所へ行く必要はない。ただ一人で静かになれる時間が必要なだけだ。来週になれば少しは余裕ができるだろうか。今日日中にふとやってきた隙間のような静寂の時、偶々車を停めた場所で見た石垣の上で揺れる光と影は美しかった。…

2020‐08‐06 母を看取った後の日記

人は死んで肉体を離れた後、生きていた時よりもずっと色濃くその気配を漂わせる。日中ふと齎された静かな時間に撮った写真の中に母の気配を感じた。彼女のエッセンスは今や世界のあらゆるものに含まれている。 祖父母が亡くなった後も同じように感じたのを思い出した。自分と彼らとが肉体をして個別に分かたれていた時よりも、彼らの肉体が消滅した後の方が、彼らのエッセンスをよりはっきりと感じる。彼らは、わたしの中に存在しているし(思い出の中にという意味ではない)、この世界のあらゆるところに遍在している。 子どもの頃からこの感覚は変わらない。 だからわたしは、身近な人が死んだ後も喪失感や悲しみを感じないのだろう。…