自分で自分に与えること

人生は、自分自身を発見あるいは再発見しては、自らのあらゆる側面を受け入れていくプロセスだと言える。延いてはそれは他者そして世界のあらゆる側面を受け入れていくプロセスにもなる。さらに言えば、人生とは、自らを知り、自らの望みに気づき、それを自分で与えていくプロセスでもある。 自分が本当に望んでいる(いた)もの、あるいは、求めていたけれど与えられなかったもの。それを、他者に要求するのではなく、自分で自分に与えていく必要がある。そしてそれは、無自覚な犠牲者の立場から抜け出すことにも繋がっている。 それをするためにはまず「わたしは無意識のうちに自分の願望を他者に投影し、他者に要求し、他者から与えられることを期待している」という事実に気づくことが必要だ。それは、無意識に一体化しているものから分離すること、つまり同一化から脱却することだと言える。 自分の望みを知り、自ら意図して、自分でそれを与えるとは、機械の状態あるいは漂うだけの流木の状態をやめるということだ。…

日本の記憶

日本で見た眺めを思い出す時にはいつも湿度の体感が蘇る。日本の風景とチェコの風景とでは、空も水も緑も土も色がまるで異なると描くたびに感じる。そしてそれは緯度の差による光と色の見え方の違いだけでなく、空気中に含まれる水の量が違うからだとも思う。 日本の記憶としていつまでも残るのは、特定の場所や眺めではなく、あの湿度の体感ではないかと思っている。湿度とそれがもたらす色そして匂い。…

一切皆空

一時的な肉体と名に閉じ込められているわたしという‘此れ’はひとつの夢であり、そのひとつの夢の中で遭遇するあれやこれやも、あの人もその人も、またすべて夢である。上にも下にも無限に入れ子状態になった夢の中にいる。それはまた、意図すれば自在に移動できるということでもあるのだが。 すべてが夢であると気づくことは、自分などというものはそもそも無いと発見することでもある。そこからようやくはじまる。破綻からようやく‘わたし’がはじまる、すなわち生がはじまるとはそういうことだ。 この肉体と名に閉じ込められることによって見られる夢を見に来たのだ。 以前のわたしは名と肉体を与えられて閉じ込められた‘犠牲者’になりきっていたのだな。そしていつしかそれに飽きたのだ。やり尽くし味わい尽くして飽きると終わるし死ぬ。そうしてその陰陽を抜けたところで再生する。 「終わらせるため」に来た。わたしはその途上である。…