南ボヘミアでの快適な生活

この時期のプラハはメトロもトラムもあちこちが工事中で、路線の一部が運休だったり、駅が閉鎖されていたりして、移動がちょっと大変だ。おかげで今日はいつも以上に疲れた。 プラハに来るたびに、南ボヘミアとは比べものにならないぐらいに人が多いだけでなく、ヴァンダリズムや、路上のゴミや吸殻も多くて、街が荒れているなと感じる。そして、南ボヘミアに帰り着くとほっとして、現在住んでいる街に引越して本当によかったと思う。 思えば、南ボヘミアでの生活は、プラハで暮らした年月よりも長くなった。私が引越したのは、母が亡くなって、さくらをチェコへ連れてくるのを決めたことがきっかけだったので、母の命日が来るたびに、南ボヘミアでの生活も一年ずつ長くなったのを確認している。…

金鉱脈をめぐる旅

6月に訪れたフィンランドのウツヨキやイヴァロ川流域には金(フィンランド語では「Kulta」)採掘の歴史があり、現在でも砂金採取が行われている。今回の旅では、16世紀に最初に金が発見されたというウツヨキで、「Kultala (Gold village)」という名のトナカイから繋がる嬉しい縁にも恵まれた。 昨夜ふと思い立って、9月末に再訪予定の久米島に関する情報をなんとなく検索していたら、久米島にも戦前に金採掘の歴史があったと知って驚いた。久米島は沖縄県で唯一、金鉱山の記録が残っている島らしい。 私が妙に惹かれる土地/居心地がいいと感じる土地には、金にまつわる歴史が残っていることが多いようだ。図らずも金鉱脈をたどる旅をしている。実は、チェコ共和国にもかつては金鉱山があり、現在でも僅かではあるが砂金採取が可能な場所がいくつかある。…

レストラン「御ゆき」

夢の中で、「御ゆき」という昔ながらの喫茶店のようなレストランを訪れた。夢の中ではそこは大阪ということになっていて、「御ゆき」は大きな新しい商業施設に隣接する古いホテルの中にあった。入口には食品サンプルが並んだショーケースとメニューが置いてあり、私はパスタを食べることにした。少し遅い時間だったので、案内係の老婦人にまだ入店できるか尋ねたところ、23時まで営業しているので大丈夫だと言われた。私は、チェコでは材料すら入手できないヴォンゴレを食べようと決めた。 この場面の前に、私は隣の新しい商業施設内のカフェで友人と待ち合わせていた。しかし、とても空腹で何か食べたかったので、友人とは後で合流することにして、混雑した商業施設を抜けて、隣にある古いホテルの中で食事ができる店を探すことにしたのだった。…

故郷の街と、今いる国と

チェコ共和国のペトル・パヴェル大統領が姫路城を訪問し、彼の立ち会いのもと、姫路城とプラハ城との間に姉妹城提携が締結されたそうだ。 姫路城の近くで生まれ育ち、現在はチェコに住んでいる私にとって、これはなかなか奇遇で嬉しいニュースだ。もし私の母や彼女のパートナーがまだ生きていたなら、パヴェル大統領の訪問も、姫路城とプラハ城の姉妹協定締結も、きっと喜んだことだろう。 虐待と依存の連鎖から逃れるため、大学進学を機に故郷を離れて以来、再びあの街で暮らすことはなかった。しかし、約20年をかけて自分自身を回復し、母との関係の再構築に取り組み、最終的に彼女の死を見届けてからは、故郷に対する印象も変化した。今となってはあの街は、強い愛着はないけれど、多くの思い出が残る懐かしい場所だ。 幼少期に母と暮らしたアパートからはいつも城が見えていた。通っていた中学・高校は城のすぐ隣にあったので、通学時には常に城が視界に入っていた。あまりに日常的な光景だったので、これまで強く意識したことはなかったけれど、現在住んでいる国の城とあの城との間に特別なつながりが生まれたのは、喜ばしいことだ。 40歳の頃、日本…

6年ぶりの再会

ブルノに住む友人が訪ねてきてくれたので、街を散策したりお茶をしたりしながらたくさん話をした。どうやら6年ぶりの再会だったようだ。そんなに月日が経ったとは思っていなかったので少し驚いた。 芸術行為そのものを目的として、創作活動に夢中で取り組み、研鑽を続ける中で自ら満たされている人との交流は、実に貴重で愉快だ。自ら創り出すことによって満たされている人は、他者からの承認を必要とせず、単独で循環/成立していて清々しい。 彼にも、私が描いた絵のポストカードの中からいくつか好きなものを選んでもらって手渡した。創造を通じて共振するのはただただ楽しい。いずれは個展などで原画を見てもらえるよう、作品数を増やしていきたい。…

過去について

犬を通じて親しくなった近所の友人との会話の中で、お互い、家族や義家族の中に依存と虐待の連鎖を含む機能不全があった(ある)ことを話した。彼女から、「あなたはそんなにも大変な状況からどうやって自己を回復したの?」と尋ねられ、私は久しぶりに自分の過去30年ほどの経緯をできるだけ簡潔に話した。 そして、「そんなにも多くの大変な経験を冷静に話せるなんてすごい」と言われて、自分の過去と回復のプロセスを話す時に、感情がまったく揺らがないことを改めて確認した。何年か前までならば、過去について話すと、時に涙が溢れたり背中が痛くなったりしたものだが、今となってはすべて淡々と話すことができる。 最近はそもそも人と話をする機会が少ないので、自分の過去について話すことは滅多にないけれど、今日のように、話の流れの中で相手が関心を持ったり、何らかのヒントやきっかけになるならば、きっとまた同じように正直に話すだろう。誰かを助けたい/誰かの助けになれるとは思わないが、自分の経験をシェアすることはできる。…