悲嘆を通過して

2023年7月にさくらが旅立った後、わたしはしばらく完全な悲嘆状態(鬱状態)に陥った。その最中も、少し立ち直ってからも、自分が抱えるあまりに大きな喪失と、その悲しみ、痛みを、きちんと聞いてもらった相手は、共に暮らしているV以外いなかった。 幼友達にはメッセージを通して話を聞いてもらってはいたけれど、口頭で話す機会は無かった。昨年10月に訪れたブルターニュで、現地に暮らす友人と食事を共にした際、さくらのことを話しているうちに涙が溢れて止まらなくなった。彼女にただ話を聞いてもらい、素直に泣くことができて、とても救われたのを覚えている。 しかし、そのブルターニュ滞在中に、母の内縁の夫が急逝したため、またわたしは多忙な状況に追われることとなり、自分の悲しみや痛みを感じて言葉にする時間がなくなってしまった。今年の年始に一人でヘルシンキで短い休暇を過ごし、その後数ヶ月の鬱期間を経て、ようやく悲嘆を通過できたのだった。 今でもこうして書いていると涙が込み上げてくるけれど…ね。…

父の車の給油を手伝う夢

夢の中で父の車の給油を手助けしていた。そこはがらんとした妙にだだっ広いコンクリート造りの給油所で、経営者は高齢の女性らしかった。父の車はあまりに古いため、給油にはエクステンションホースが必要で、他の給油所ではもう対応していないようだった。 わたしは長い長い給油ホースにさらにエクステンションホースを取り付ける手伝いをした。ガソリンタンクは、停車位置からはいくつかの段差を上ったところにあるようだったが、ホースの先は死角になっていて見えなかった。父は車から少し離れた場所で暢気に煙草を吸っていた。 わたしは父に「今はまだこの給油所があるからいいけれど、経営者も高齢のようだし、ここが閉業したらあなたはもう給油ができなくなる。そうしたら車を換えるしかないかもね」というようなことを言った気がする。彼は生前と同じようにのらりくらりとしていて、話を聞いているのかどうかわからなかった。 夢の中でもわたしは現実と同じように、父が聞いているかどうかは気にもせず、「おそらく聞いていないだろうし、やりたいようにやってください」と思っていた。既に亡くなった他の人たちとは違って、父の姿はうっすらと見えていた。多…

実家の床に虫が湧いている夢

夢の中で、以前の実家に似た建物を訪れていた。わたしの滞在用に残してあるという家具のないがらんとした部屋に入ると、床の木材の隙間から大量の虫が現れてうろうろしはじめた。わたしは床の上にあった「さくら」だという小さなぬいぐるみを手に取り、部屋を出て、母と祖母に「虫が大量に湧いている、何とかしないと」というようなことを言った。夢の中では、床の上を這っているのはナメクジだと思っていたけれど、見た目は黒っぽくて複数の足がある小さな虫だった。やがて何かしらの専門家らしい眼鏡をかけた女性がやってきて、部屋の中を確認しはじめたあたりで記憶が途切れている。 母と祖母が夢に現れたのはちょっと久しぶりだった気がする。いつものごとく彼女たちの姿は見えなかったけれど、それが彼女たちだということははっきりわかった。夢の中で既に死んだ人たちに会う時、その姿形は見えることがない。 先月日本で申請した母方の祖父・祖母名義の不動産の相続登記が無事に完了し、すべてを相続した親族から登記完了証を受け取ったという連絡が届いた。これでわたしは、母方・父方どちらものしがらみと重荷から完全に解放された。これまでの人生の大半を…

会いたい人に偶に会うだけでいい

毎度のことだが、日本滞在から戻った後は、PMSの身体的症状が強く現れていつも以上に辛い。身体のあちこちの痛みと倦怠感、のぼせるような感覚も強くて、物事に集中するのも難しい。そうして毎回、日本に滞在していた間にどれほど肉体的に無理をしていたかを思い知る。 思い返せば、まだ日本に実家があった頃も、わたしは毎回睡眠不足に陥っていた。実家に滞在していた間は母や彼女の内縁の夫の生活ペースに合わせるしかなかったし、扉だけで仕切られたワンフロアの室内で常にテレビが点けっぱなしになっているような環境では、静かに休むことはできなかった。 これまでの日本滞在の中で、睡眠と休息が十分にとれてリラックスできていたのは、2022年に一人で熊本に5日間滞在した時だけだったかもしれない。行きたい場所はあったけれど、予定は決めないままの自由な一人旅だった。 日本以外にもあちこちへ一人で旅をしてきたが、旅先で眠れないということはなく、何処にいても眠りたいだけ眠ってのんびり過ごした。しかし、日本滞在中はそれが難しい。ということは、わたしは日本では常に緊張状態にあるのだろう。日本ではいつも手続き等複数の用件に追われる…

光と大気と水と

昨年からパンフレットの絵を描かせてもらっているオーケストラの次回演奏会のメインテーマは、アントニーン・ドヴォジャークの交響曲第9番「新世界より」だが、聴けば聴くほど具体的な風景からは遠のいていく。ノスタルジアの後に訪れる強烈なEmergenceを描こうと思うと、特定の風景ではなくなるようだ。形よりも、光や大気の動きが強く感じられ、J. M. W. Turnerの特に後期の作品に近いイメージが浮かぶ。 具体的な風景は描きたくないが、モチーフは必要なので、光と大気と水が融合するような眺めをゆっくり探していこうと思っている。ある特定の色は既に明確に浮かんでいるが、これはわたしの共感覚がもたらす印象だろう。…

全ての重荷から解放され、鬱状態を抜けて、次章へ

日本からチェコに戻って三日目、まだまだ蓄積した肉体疲労からの回復途中で休むこと以外何もできていないけれど、精神的には以前と違って重さはまったくない。 振り返ると、2020年夏に日本で母の死を看取ってからの数年間、わたしは云わば長い鬱状態にあったのだと思う。程度の波はあったものの、シャワーや歯磨き等の基本的な生活動作すら困難な時期も多かった。それが、今年3月頃から厚い雲が晴れるのように心身が軽くなり、生活に困難を感じることもなくなって、何をするのも楽になった。 2020年夏に母を実家で看取り、膨大な量の死後事務と遺品整理を一人で片付けて、さくらを連れてチェコへ戻ってきた後、コロナ禍ということもあって、わたしは引きこもり状態になった。誰にも会いたくなくて、外に出るのが億劫で仕方なく、さくらの散歩にすら行けない日も多かった。Vには本当によく助けてもらった。 2023年、母から相続した不動産の譲渡が完了し、母の納骨を終えてチェコに戻った直後に、さくらが突然旅立った。わたしはしばらく完全な鬱状態(悲嘆状態)に陥った。数ヶ月を経て、少し動き出せるようになり、パステル画を通じて出逢った画家を訪…

役割と本質

わたしが日本へ行くのは大抵何かしら義務や手続きを果たしに行く時であり、さらに、日本滞在中は毎回複数の人から相談を受けたり、打ち明け話を聞いたりすることになるので、日本へ行く=役割を果たしに行くことと認識している。そうしてある程度の無理は覚悟して、自覚的に役割を担っている。 わたしは、云わばアウトサイダーであり、だからこそ、日本にいる友人知人にとっては、彼らが属する集団や社会とは異なる視点や風をもたらすマレビト/メッセンジャーになり得るのだろうと思う。だから、日本滞在中は、顔を合わせる人の話にはできる限り最後まで耳を傾け、伝えるべきことは余さず語るようにしている。 そのため、日本へ行くといつもとにかく忙しくて、肉体への負担も大きいが、滞在期間が限られているからこそ果たせる役割だということもわかっている。こうした多忙な日本滞在を何度も繰り返すうちに、最近は自分の身体の限界もわかるようになり、一日の用件や会う人の数を限定し、無理を感じる場合には直前であっても正直に断るようにしている。 普段、わたしは組織に属して働いてはいるけれど、勤務先の体制も自由なため、役割や立場に縛られることもなく…

帰宅後二日目

昨夜から今朝にかけてもまた12時間眠り続けて、たくさん夢を見た。起きだしてみると、身体のあちこちが痛い。そして、食事を摂ると、途端に全身が重くなって動けなくなる。まだまだ疲労は抜けていない。今日は、手荷物として機内に持ち込んでいたものの整理のみ終えた。スーツケースは開いたまま放置している。 顔は洗ったし、歯磨きはしているが、まだ一度もシャワーはできずにいる。3週間分の睡眠不足と無理を続けたツケは大きい。日本滞在から戻った後はいつもこんな感じだが、今回は精神的なストレスからは解放されただけ随分マシである。 日本から戻ってくるたびに思うのは、あのまま日本で働き暮らし続けていたら、わたしは何らかの深刻な病気を発症していたかもしれないということだ。 今回東京で、13~4年前に同じ職場で働いていた人と再会し、彼女との対話の中で、当時の自分はいつも何かしら不快な症状や心身の不調を抱えていたことを思い出した。彼女からもそう指摘され、また、今のわたしは当時とはまるで違って見るからに健康状態が良さそうだと言われた。 10年前、初めて訪れたポルトガルから日本へ戻った後、自分の生活も、身の回りの環境も…