思いを超える、自分を超える

会社勤めなんてもう二度と無理だと思っていたけれど、現在わたしは会社員をしているし、一人でいるのは楽だしOCDもあるので誰かと一緒に暮らすなんて二度と無理だと思っていたけれど、今では5年以上Vと共に暮らしている上にさくらも一緒にいる。事実は常に自分の(過去の)思いからは外れている。そんなものだ。 そんな風に事実を味わうにつれ、“思い”をあまり抱かなくなった。人生は思い通りになるとかならないとかというものではなく、むしろ、いかに自らの“思い”から外れていくかというプロセスかもしれない。自らの思いから外れていくのは、思いを超えてより自由になることであり、それは小さな自己を脱してより大きくなることともいえる。…

回想

20年以上も前に付き合っていた人たちが夢に現れることが続き、すっかり忘れていたようなことを思い出したり、当時のわたしは本当は傷ついて悲しい思いをしていた自分自身を認められなかったし受け入れられなかったのだなと改めて振り返ったりしていた。 思えばあの頃は付き合っていた相手から酷い扱いを受けたことも多々あったが、あれはわたしがわたしをそういう風に扱っていたということだ。自分を蔑ろにして痛めつけていた。自尊心があまりに低く、感情も感覚も麻痺していた。 「あんなこと、今なら即座に拒否したり、反論・反抗したりしただろう」と想像してすぐ、今はもうそもそも他者とあのような関係にはなり得ないと思った。当時と今とではわたし自身の状態があまりに違う。時折こうして不意に過去を振り返るたびに、あれらはまるで別人格の過去世のようだと感じる。…

三人の父と菩薩の顔が刻まれた小さな石橋

夢の中で、高層ビルの最上階からエレベーターで地上へ降りた。すると隣に父がいて、わたしたちは共に歩いた。夢の中の父は実際よりも老いていて、腰はすっかり曲がり脚が不自由なようだったが、まるで古い機械を直すように自らの手で骨盤をコツコツ叩いて調整しながら驚くほどの速さで歩いていた。 少し離れたところには、青年時代の父と、さらにはもう一人別の姿をした父もいた。年老いた父と共に歩いていると、道路に小さなアーチ形の石橋が架かっているのを見つけた。うっすらと苔むした石橋の端には美しい菩薩の顔が刻まれていた。橋の向こう側には廃墟のようにも見える高いビルが建っていた。 ビルの横にはずいぶん昔に廃線になった高架の跡が錆びついて赤茶けた状態で残っていた。わたしは「子どもの頃はよくここにきてこの橋を渡った」と一人で懐かしんでいた。そして刻まれた菩薩の顔をみながら石橋の上を行ったり来たりしているうちに、父はどこか建物の中へ入っていき姿が見えなくなった。…