空の上の出逢い

乗り継ぎ空港のセキュリティチェックを通過後、同じ便の同じクラスに座っていた女性とばったり再会し、なんとなく一緒にお茶をすることになった。機内では目が合って会釈はしたものの会話はなかったが、乗り継ぎ便を待つ数時間の間に随分と話題が広がり、いろんな話をした。 その方も、ものづくり(彼女自身の言葉)をされている。写真で見せてもらった作品はどれも色彩が愉快で、音楽のようだった。彼女は、わたしが以前から一度訪れてみたいと思っていた国に住んでいる。その地を訪ねる日が少し近づいた気がする。…

日本滞在最終日

日本滞在最終日。 ようやく少しだけ、一人で落ち着いた静かな時間を過ごすことができた。 上野の西洋美術館で、大好きな画家の大好きな作品に逢えた。 数年前にロンドンから東京に引越した一枚。 Akseli Gallen-Kallela (1865 - 1931) Lake Keitele (1905)…

思い出の場所

生まれ故郷の街に滞在する最終日。母と母のパートナーが住んでいた家を明け渡すためにやるべきことをすべて終えて、幼友達とともに散歩に出かけた。このあたりは、母の生前にわたしが帰省をした時や、数ヶ月ほどともに暮らした頃、母とさくらと一緒によく歩いた思い出の場所。…

夢の中でさくらと

夢の中でさくらに会った。 見たことのない家屋の玄関先に座っていたら、さくらがこちらに向かってトコトコ歩いてきて、わたしの左にピタリとくっついて横たわった。わたしはいつもそうしていたように、彼女の背中をゆっくり何度も撫でた。近くには祖母の気配もあった気がする。 突然、さくらは立ち上がって歩き出し、道の向こう側に置いてあったボウルの水を飲み始めた。そして、水を飲み終わると、彼女はまたこちらに向かって歩いてきたが、わたしの前を通り過ぎて家の中へ入っていった。わたしも彼女のあとを追って家の中に入った。 彼女は床に敷かれたピンク色のマットの上にゴロンと横たわった。わたしはまたいつもそうしていたように、彼女のお腹を何度も撫でた。彼女は気持ちよさそうに前脚を持ち上げ、さらに撫でるよう要求してきた。わたしは「さくらはここでも(祖母や母に)大切にされ、安心して過ごしているようだ、よかった」と思っていた。 このタイミングで、こんな風に夢の中でさくらに会えた(姿は見えなかったが祖母や母にも)のは、まるで「あなたは実によくやったよ」と言われているみたいだ。…

「渡りに船」として

目を覚ますと、伯母から「和ダンスの着物の整理はどうなった?」というショートメッセージが届いていた。わたしが日本に到着した直後から、彼女は何度か、わたしの母が遺した多くの着物の中から自分の娘に好きなものを選ばせてやってほしいと言ってきた。その度にわたしは「大量の遺品整理や事務手続きがある中、着物を出して広げてみせ、それからまた整理するのはあまりに大変なので、わたしが立ち去ったら好きなだけ選んで後は捨ててください」と答えた。 祖母の仏壇の処分についても、彼女はわたしに押し付けようとしてきた。わたしは「遺産分割も一切要求しないし、すべてを譲るので、祖母の代の仏壇の処分はあなたがたでやってください」と答えたが、そうすると彼女はまた、家も土地も既に自分たちのものだという主張を繰り返して、論点をずらそうとした。 建築費用も修繕費も半分以上を支払ってきた母と母のパートナーに対し、「この家の権利者はわたしたちだから早く出ていけ」と言い続けてきた彼女たちは、遺品の中から自分たちが欲しいものだけを残して、後の処分をわたしに押し付けようとし、人の時間と労力と金銭を搾取しようとする。 しかも、彼女たちは…

遺品の処分を終えて

母と母のパートナーが遺した遺品の処分はすべて完了した。そして今日、母と祖父母、そして後には母と母のパートナーとさくらが暮らしていた家、また、わたしも短期間ではあったが一時は暮らしたことがあり、わたしにとってはいつも帰省先だった家から、自分の荷物をすべて運び出して、ホテルに移動した。滞在最終日には車をあの家の駐車場に戻す予定だし(そして業者に引取ってもらう)、同時に遺影を引き取りにも行くけれど、一旦しっかりお別れをした。 疲れすぎていてスーツケースを開くことすらできず、ただただ椅子に座ったまま3時を過ぎてしまった。でも、やっと安心して一人で過ごせる空間へ移動することができた。明日は市役所と銀行へ、明後日は運転免許センターへ行こうと思っていたけれど、一日ずつ先延ばしにすることにした。とにかく心身ともくたくたに疲れ果てている。 ようやく重い腰を上げて荷解きをした。もう4時半、おなかがすいてきた。発熱と下痢が一週間続き、溶き卵を落としたうどんとごく少量の野菜、りんごジュースしか口にできていなかったので、スープや味噌汁、お粥、温野菜など、消化が良くて滋養のあるもの、きちんと料理された温かいも…

友人たちに助けられて

今回の日本滞在中、わたしは幼友達と彼女の家族に大いに助けられている。わたしの母とも親しかった彼女たちは、様々な事情も理解していて、わたしの話を本当によく聴いてくれた。そうして精神的に支えてもらっただけでなく、何度も遺品の処分やゴミ出しを手伝ってもらい、わたしが発熱して寝込んでいた間は買い物にも行ってもらった。彼女たちのおかげで、わたしはこのハードな日々を乗りきることが出来た。 幼友達は今夜もまた、最後の遺品処分と、しばらく預かってもらう荷物の運び出しを手伝いに来てくれた。すべての作業を終えた後、彼女と二人でコーヒーを飲みながらいろんな話をした。彼女と彼女のお母さんは、母の生前、何度もこの家を訪ねてくれた。そうしてこの家でよく集まって食事をし、あれやこれやとおしゃべりをして、楽しく過ごしたものだった。この家で過ごす最後の夜に、彼女とともに心地よいひとときを過ごすことができてうれしい。 わたしにはもう、日本に会いに帰る家族はいないし、家族が暮らしていた家も無くなる。しかし、ここには何度でもまた会いに来たい人たちがいる。すばらしい友人たちに恵まれて、わたしは実に幸運だ。…

連鎖を終わらせる

母と母のパートナーが暮らしていたこの家では、上階から伯父(わたしの母の兄)が喚く声が聞こえたり、力任せにドアを閉めたりモノを乱暴に投げたりする音が響いて、天井と壁が振動することがよくある。伯父は普段は温厚だが、突然キレてモノに当たり散らす性質があり、認知症の進行と同時にその頻度も高くなったらしい。わたしの母がまだ生きていた頃には、彼は「(この家を)出ていくと言ったのに出ていかないのか!」と怒鳴り込んできたこともあったと聞いた。 頻繁にそうした音や声を耳にするのも、わたしにとっては大きなストレスになっている。わたしの母は、幼少期から思春期にかけてよく伯父(兄)から暴力をふるわれたと聞いたことがある。そんな母もまた、昔は頻繁に感情を爆発させ、わたしがこの家を出るまで幾度となくわたしに肉体的・精神的暴力をふるった。そんな経緯もあり、上階から怒号や暴力的な騒音が響いてくると、つい身体がすくんでしまう。これがトラウマなのだなあと、自分の身体の反応を認識しながら思う。 わたしにとって、この家と家系との繋がりを完全に絶って自由になることは、そうしたトラウマから自由になるプロセスでもある。わたしは…