ヘルシンキで何もしない日々を過ごす

12日夕方にヘルシンキ到着後は、5年前にプラハの古書店で偶然出会った方とお茶をした以外に特別なことは何もしていない。行こうと思っていた美術館のひとつは、外にあまりに長い行列ができていたのであきらめた。Akseli Gallen-Kallelaミュージアムへは、周辺の積雪量がすごそうなので今回は行かないことにした。 昨日は夕方から百貨店に出向いて肌触りのいいニット帽を購入した。今日は起き上がれなくて、昼過ぎまでベッドの中にいた。午後からぶらぶら散策をし、適当に見つけたカフェの窓際カウンターでぼんやり過ごし、着替え用のTシャツとレギンスを購入して、偶々見つけた広東料理レストランで美味しい腸粉と青梗菜炒めを食べた。…

フィンランドへ

ヘルシンキに到着。今日の気温は、チェコより少し低いかなという程度。雪が厚く積もっているからか、むしろ朝晩のチェコよりも暖かく感じられる。…

虚無より

日本で母と母のパートナーが暮らしていた家を整理・処分して手放し、チェコに帰ってきたら、ようやくほっとしたのか、しばらくうつ状態に陥っていた。シャワーや歯磨きすら困難になり、人になど会いたくもなく、クリスマスの時期も、Vの家族や親族には会いに行かずに一人自宅で過ごした。 母のパートナーは、わたしにとっては唯一の「さくらのことも、母のことも、共有してきた存在」だった。そんな彼もいよいよ亡くなり、「とうとう誰もいなくなってしまった」という大きな喪失感を味わっている。 7月にさくらが旅立ち、しばらくは眠ることすらできない日々を過ごしていたが、9月以降は様々な用事が続いてとにかく忙しかったため、自分の悲しみや喪失感を味わう余裕すらなかった。だから、ようやく実感が戻ってきたのだと思う。 この喪失感は、実は元からあるものだ。自分の中には埋めようのない巨大な虚無がある。生きていると、そのことを直視し、認めざるを得ない時が何度もやってくる。そして、このブラックホールのような虚無の穴こそ、創造の源だということもわたしは知っている。 作ることによって生きるしかない。しかし、時には、そう転換するに…

Neptune is calling

海王星が呼んでいる。ふとそう感じることがある。 わたしの海王星はアンタレスと合で、わたしにとって海王星はアンタレスという多次元へのゲートを行き来する船のようなものだ。 松村潔氏は以前「海王星(アストラル体)の布団で寝ている」と書いていた。わたしは、自分はいつも片足を海王星に置いていると感じている。そして、この海王星の船の規模を拡大しようとしている。この船は、自分専用の船であると同時に、他の人も利用できるものになればいい。船を大きくするとは、ゲートウェイを太くすること。管の拡張、自在化、そして自由化。…

自在に行き来する

渚、つまり複数の要素が混ざり合うあたりで、どれかひとつに入り込んで固定するのではなく、水際で眺めながら、あちらとこちらを自在に行き来するのがいい。行き来することこそ“わたし”の本来の性質でもある。…

Feeling the tidal shift

ここ数年、特に今年の夏以降は、大きな潮目の変化を感じ続けている。長いスパンで眺めれば、もっと前から続いている流れではある。 船は形が変わり、既に以前とはまったく異なる海を航海し始めている。そして終わりはない。…

終わりのないことを目的に

自己の内的な開発や拡大のための手段であるはずの行為も、練習を重ねて技術を磨いたり、新たな道具や方法を取り入れたり、他者から学んだりしているうちに、内と外が入れ替わってしまい、手段を目的だと思いこんで、本来の意図を見失いそうになることがある。しかし、それでも続けているうちに、やがてまた目的を思い出させる、あるいは刷新させる機会が何度でも与えられる。 そんなふうに、内と外、あちらとこちらを行き来しながら、見える世界においても見えない世界においても自己の領域を広げ、自己を超えていく。そもそもそれこそが目的だと言えるかもしれない。 死ぬまで終わらない(本当は死んでも終わらないが)ことを目的にすると、一生退屈することがない。…