ある女性からのメールと、それに対する返答

ある女性からのメールと、それに対する返答
「最近、自分がわがままだと言うことを思い知らされたことがあり、直したいなと思って、誰かに話を聞いてほしいなと考えてました。Rさんは今はセラピーの活動はしていないのでしょうか?」

「わがままでいいのではないでしょうか。わがままであることを自覚していれば、そういう自分にとって相応しい関係や環境が作れるわけですから。自分がわがままであることに無自覚なまま、他者に期待したり、人や環境をコントロールしようとすれば、苦しみが生じるでしょうけれど。

どんなことにおいても、自覚的であることが重要だと思います。自覚的であるとは、自分が思っていること、自分が感じていることが、本当に自分の思考や感性なのかということに、いつも意識的であることです。世の中には、人格や役割を生きていることに無自覚で、自分ではない感情や思考に自己同一化している人がたくさんいます。そして、そういう人たちは、自分の状態を自覚していないから、他者にも無自覚に同じことを求めます。

そういう社会においては、自分で自分を自覚し、わがままな自分を引き受けて生きると、孤立するかもしれません。しかし、無理をして小さな社会の中に居場所を確保し、その結果、たとえば病気になるぐらいならば、いっそはみだして一人で生きる方がよほど清々しいのではないでしょうか。そうすれば、今いる社会とは異なる社会を見つける(または作る)ことができるかもしれません。」


「わがままは職場でのことですが、それでもわがままでいいのでしょうか?職場だと、自分が扱いにくい人とされたり、誰も助けてくれなくなったりするのがこわいです。」「私もそう(自分にとって都合のいい状況は手放さないまま、その意味づけを求めている)だと思うので、Rさんに嫌な思いをさせてしまっていたらごめんなさい。」

「『怖い』と感じることは大抵、実は本当に望んでいることだけれど、それを実行することによって起きるかもしれない変化が怖いのでしょう。自分の行動に対する周囲からの反応が怖い。正直になることによって、今ある関係や環境を失うことが怖い。

そうして、多くの人が『怖いから』という漠然とした理由で、自分の本音や感覚を抑圧し、それらを『なかったこと』にして生きています。しかし、それは、『ある』ものに『無い』ふりをして、嘘をつくことですよね。そうやって自分に嘘をついている人は、他人にも同じことを求めます。他人に対しても我慢や忍耐を強いるようになります。時には、正直に生きている人を羨み、挙句には貶めようとまでします。これは、人間社会で延々と繰り返されている無自覚な連鎖です。

以前のわたしは、そういう連鎖から抜け出したい人の手助けをしたいと思って、占いやセラピーをしていました。しかし、本気で連鎖から抜けたい人は、占いやセラピーによる意味づけがなくても、自ら能動的に決意し、行動します。それとは反対に、自分で自分を助ける力を発揮しない人は、どれだけ頭で『今の状況を抜け出したい、変わりたい』と思っていても、結局は行動しません。自ら行動はしないまま、周囲が変わることを期待し、引っ張ってもらうことを待っています。それがわかったので、わたしは役割として占いやセラピーをするのを辞めました。

また、以前のわたしは、誰かと一緒にそういう社会的連鎖を抜け出したかったのだと思います。互いに同意し、連帯しあえる相手を必要としていたのです。だから、セラピーや占いという方法で、共感しあえそうな人との出会いを求めていたわけです。しかし、本当に変化する時、人は単独で動きます。もちろん、それに伴い、さまざまな人からサポートが得られることはあるでしょう。しかし、決意し、行動する時、わたしたちはいつも一人です。そう気づいてからは、占いやセラピーはむしろ、同じ状態に留まるための言い訳作りにもなり得るのではないかと思うようになりました。もっと言えば、思いこみでしかない狭い世界とその都合に執着する理由にすらなる。それが、つまらなく感じられたのです。

と言っても、わたしは、Aさんからこうしてメールをもらうことを嫌だとは感じていないですよ。もし嫌だったら、返信しません。実際に、めんどくさいな、興味がないな、と感じるメールはスルーしてしまうことが多いです。わざとではなく、すぐに忘れてしまうのです。今はもう、そういうメールは来なくなりましたが。だから、そこはどうぞ気にせずに。

自分がきちんと自覚的に『わがまま=自分の本音に正直』に生きていれば、他人のわがままも正直さもわかるし、それにムカついたり、イライラしたりすることはなくなります。他者がどう考え、どんな言動をするかということと、それについて自分がどのように感じるかは、まったく別のことだというのがはっきりします。そして、『どうしてだろう』『何か悪いことしたかな』などと囚われることもなくなります。

他者がどう思おうが、たとえば誰かに嫌われようが、それは、その人の問題です。他人の思いとわたしの人生はまったく別のものなので、わたしは自分にとって快適で楽しい日々を生きることに専念するのみです。おもしろいもので、そうやって生きていると、自分にとって楽しいことや、おもしろいことに専念している人々との出逢いが増えます。

社会における人格なんて、歯車の違いみたいなものですから、こだわらない方が楽ですよ。」

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