現在のパートナーと共に過ごしはじめた当初、彼から「それで、あなたはどうしたいの?」と頻繁に問われた。そこで気づいたのは、まさにこのツイートに書かれていること(=日本語だと主語を使って思考していないこと)だ。
掘り下げると、わたしは「日本語社会の中で、日本語を使って生活しているうちに、無意識に習慣化されてしまっていたプログラム(癖)に気づいた」わけだ。「わたし」という主語を使わない「癖」は、自分の感情や感覚を表明するよりも、相手や周囲の思い(という思いこみ)を優先する忖度プログラムだった。
しかし、英語を共通語とするパートナーとの間では、「わたし」という主語を使わずにコミュニケーションをとることは不可能だ。互いに「わたし」であることから対話は始まる。今ではそれはごく当たり前のことだが、チェコに来た当初のわたしは、「I=わたし」という主語を用いて考え、話す訓練をしていたのだ。
今では、たとえば母のことを思う時でも、「彼女の状態や言動」と「それに対してわたしが感じること」とは主語が異なるので、物理的事実と自分の感情を混同することはない。半ば無意識ながらも、常にそういう視点で物事を見て、考え、言葉にしている。主語が明確だと、境界線がはっきりするのを改めて実感する。