自分の日本語を自らで鍛え、自分の言語を使って考えることの重要性

自分の日本語を自らで鍛え、自分の言語を使って考えることの重要性

以下は安冨氏の話からの抜粋と要約。

「自分の言語(母語)の運用能力に匹敵するほどに、外国語を運用することはできない。だから、日本語でしっかり考える必要がある。そのためには、自分の日本語を鍛え上げないといけない。」

「日本語の古典や中国語の古典など、日本語と日本文化を育てた様々なものを自分で吸収していかないと、きちんと日本語で話すことはできない(つまり、きちんと自分で考えることができない)。」

「自分の言語を自分で鍛え上げて使う訓練ができておらず、定形的な喋り方しかしていないと、外国語を勉強して使い始めても、その言語の定形の中でしか話す(考える)ことができない。」

「現代の日本語は、元々日本列島に住んでいた人々が話していた言語に、朝鮮系やアルタイ系の言語が混ざり、中国語が大量に入り、さらに近代になって英語が入ったという非常にクレオールな言語。なので、日本語の中だけで単純かつ論理的に思考できるようにはなっていない。だから、自分の日本語を自分用に鍛え上げる必要がある。これは日本語だけの問題ではない(他言語においても同じだろう)。」

「日本語の場合、固まったスタイルができていないが故に、『自分自身の日本語』を構築するのは難しくはない。」


これは本当によくわかる。外国語をある程度習得し、その言語を使って人や物事に向き合うようになると、母語(日本語)で話していたことの多くがいかに思考を伴わないものだったかに気づかされる。わたしが日本語で話していたことの多くは、自分ではない"プログラム"が機械的に喋っていただけだった。

定型的な話し方しかできないということは、定型的な視野でしか見ることができず、パターン化した思考の繰り返しに終始するということだ。実際のところ、他国語が話せる・他国語で暮らしている人であっても、そういうケースは思いのほか多い。

わたしは時々、日本語から英語への翻訳を依頼されるが、翻訳よりもまず、日本語文章の読解と整理に手間がかかる。書いた人が何を伝えたいのか、何が重要なのかを見極める必要があるからだ。そして、日本語で書いた(話した)本人が、何を書いて(話して)いるのか明確に把握できていない場合もよくある。

オノ・ヨーコの詩を初めて読んだ時に、彼女の英語は彼女独自のものだと感じたのを思い出した。ネイティヴスピーカーの英語とは異なるけれど、自然な響きで、豊かな表現力を有している。そう気づいて、わたしも独自の英語で表現できるようにならねばと思ったし、同時に安心もしたのだった。

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