高層階の部屋、向かいのベランダから見上げてきた少女、青空に輝くる星

夢の中でまた、とても高い場所にある広い空間で暮らしていた。Vとさくらも一緒にいた気がする。わたしの誕生日祝いとして届いた置物をどこかに飾ろうとしていた。たくさんの花の装飾がなされた陶器のような大小の置物で、贈り主はわたしが日本で最後に勤務していた会社の従業員の人々だった。 一旦は洗面台の横に置いた小さい方の置物を窓辺に移動させていたら、窓の外の下方にある建物のベランダにいる女の子と目が合った。そこでわたしは、彼女が、現在自分が働いている会社のスタッフの娘だとわかった(実際には多分その人に娘はいない)。彼女はベランダのクリスマス飾りを片付けているようだった。 彼女は興味深そうな様子でこちらを見上げていたが、わたしはあまりじっと見てはいけない気がして何気なく視線を外した。そうして別のもっと大きな窓の前へ移動し、空を見上げた。そこはかなり高い位置のようで、地表ははるか遠く、雲がすぐ近くに見え、青空なのにたくさんの星が光っていた。…

体裁を脱して

「自分自身の絶望的な無力さを認めたところで、ではどうするかというと、単独で夢中になれる行為に自分を余さず投じるしかない。人に働きかけるのをやめて陶器の皿ばかり作っていたという晩年の出口王仁三郎みたいに一人で内へと向かって最終的にはひっくり返るような行為に没頭するしかない。それしか『生きる』術はない。あとはたくさん眠って肉体を抜け出し、たくさん夢を見るだけだ。いずれも体(と体に纏わるあらゆる重たいこと、体裁)を破ってはみ出していくこと。つまり『人』であることから脱するということ。」 3年前の今日、このようなことを書いていた。 体から抜け出し、はみ出し、上へも下へもどこまでも広がって、どんどん“人”ではなくなっていくのがいい。そうしてどんどん自分を超えていくことだ。それは、自分をどんどん大きくすることでもある。そうして、あらゆる他者、あらゆる存在を、自分の中に見出し、呑みこんでいく。 “人”ではなくなる、つまり体裁を脱するとは、立場や肩書き、属性、他者からの評価や比較等々、小さな自己=社会の中の相対的な自己を脱していくことなので、社会的には“人でなし”になる。“人”ではなくなるのだ…