あの頃垣間見た未来
一昨日、プラハの街を歩きながら、ふと10年ほど前に繰り返し見たビジョンを思い出した。 当時暮らしていた東京の下町を歩いていると、重厚な雰囲気が漂う薄暗い石畳の道を歩いているような感覚が何度もやってきた。物理的な現実とビジョンが重なり、2つの眺めと感覚を同時に体験していた。 その頃は、後に自分がチェコに移り住むことになろうとは想像もしていなかった。そもそも当時のわたしは、石畳のある西洋の街を訪れたことすらなかった。しかし、今にして思えば、あれは未来(二極化するこの地上では時間は一方向に流れるのでそうなる)を垣間見たようなものだった。 個人的な体験を通して実感するのは、社会の中の相対的自我レベルで強く願ったことが実現するのではなくて、むしろそうした自我レベルの不安と執着を放棄すると、わたしという“管”を通して成される“大いなる意図”がよりスムースに展開する場や環境に自ずと導かれるということだ。 「○○になりたい/したい」とか「〇〇でなければ」といった小さな自我レベルの執着をあきらめると、本当にやるべきことに専念しやすい場所へと運ばれ、本当に取り組むべき課題に向き合える環境へと導かれ…