さくらさくら

毎年日本で桜が咲く季節になると、母とさくらと一緒に城の内堀を歩いた日々を思い出す。満開の桜並木の下で、そして、桜の花びらが舞い散る中、先を行く彼女たちの後ろ姿を見ながら歩いたあの眺め。 わたしがチェコに移住する前、二十数年ぶりに実家で暮らした短い期間の思い出。…

昔の実家の台所、父とコミュニケーションがとりづらい夢

昨夜見た夢。 昔祖父母と暮らした今はもう無い家の台所で、古い戸棚の中にインスタントラーメンなどの保存食品がまだ残っているのを見つけた。そして、床の上に、美しい小さな陶器の蓋付きの器が置かれて(落ちて)いるのを見つけた。それは、香炉のように見えたが、夢の中のわたしはきれいだな、小物入れかな、などと思っていた。 そして、朝方に見た夢。 昔祖父母と共に暮らした家によく似た場所に、5人の来客があった。そのうちの一人は、つい先日数年ぶりに連絡を取りあった写真家の友人だった。彼らは何か共通のテーマに関して情報交換や議論を始めていたが、わたしは別の用事があってその場を離れなければならなかった。 わたしは、父が住んでいるという見たこともない家を訪ねたが、留守だった。移動しながら何度も父に電話をかけた。何度目かにようやく電話に出た父は、気分が悪いと言う。わたしは父に、それならば自宅に戻るか、病院へ行く方がいいと言ったが、父は外でわたしを待っていたのだと言う。 その後、場面が変わり、父の介護者と思われる男性が現れた。 彼は、父を代弁して、わたしが父と話をしないので寂しがっていると言った。 私…

諦観

絵であれ、音楽であれ、言葉であれ、無自覚な思い込みや信念の枠に閉じた創作はつまらない。 なぜなら、そこには自己想起がないからだろう。 言うなればそれは「わたしは機械です」と繰り返し述べているようなものだ。 作る人自身の中に破壊と再生、変容がなければ、すべてただ流木のままである。 「藝術は深さとか強さとかを取るべきではない.『諦』である.」 ― 髙島野十郎 「諦」は仏教において真理を意味するそうだ。 「諦める」とは「あきらかにみる」こと。…

描くことは見ること

見えていなかったもの(参考写真でもはっきりとは見えていない)が見えるようになり、隠れた部分の構造を明らかに見誤っていたことに気づいたので、半部以上描き進んでいた絵を大幅に描き直している。別紙のスケッチからやり直したのはよかった。 小さな違和感を残したまま無理に終わらせても、それはただの嘘になる。 また、違和感を無理に丸め込んで纏めようとすると、結局は全体が壊れてしまう。 違和感は、自分が何かを見誤ったり、見落としたりしていることを示すサインだ。 描くたびに、見えなかったものが見えてくる。 そうして、自分がいかに“見ていなかった”かに気づく。 それはまた、自分の見誤りや見落とし、さらには、それらを引き起こしている自らの無自覚な思い込みに気づくことでもある。 そうした“自分”の枠が壊れて初めて、わたしは本当に見ることができる。 "Everyone has many associations with a flower — the idea of flowers. You put out your hand to touch the flower — lean…

ジャン・シベリウス 交響曲第5番 変ホ長調 作品82

昨年からオーケストラの定期演奏会のパンフレットの表紙絵を依頼してくれている友人から、次の演奏会に向けて新たに絵の依頼を受けた。彼は音楽、わたしは絵画、創作を通じてこんな風に関わり合うことができるのはとても嬉しい。出逢った頃には、彼と自分がこんな風に繋がれるなど想像もしていなかった。 今回のテーマであるシベリウスの交響曲第5番は、フィンランド政府の国家的行事として計画された彼の50歳の誕生日祝賀コンサートに向けて作曲され、計画通り1915年12月8日に初演されたそうだ。第一楽章のはじまりから、澄んだ朝の光と晴れ渡る空を思わせる、清々しくも精妙な気配を感じる。 彼がこの交響曲に取り組んでいた間に残した日記を少し読んでみた。 1915年4月15日、フィンランド、アイノラ 夕方、この曲に取り組む。主題の配置。この神秘と魅惑への重要な取り込み。まるで、父なる神が天の階からモザイクのピースを投げ落とし、その絵がかつてどのように見えたかを解くよう私に求めたかのようだ。 1915年4月21日、フィンランド、アイノラ 10時から11時にかけて、私は16羽の白鳥を見た。私にとって最も素晴らしい…

肉体的な死までに完成させる目的

Google Photosがいくつかの虹の写真とともに、昨年描いた二重の虹の絵を再表示してきた。昨年2月に夢の中で見た光景。今思うと、あれはアルクトゥルスの示唆だった気がする。 現在ジオセントリックでは太陽と海王星は魚座28度で合。ということは、魚座27度にあるわたしのネイタル木星にもしばらく合だったようだ。ここ数日、ある日本の画家の作品を改めて知ることが続き、それに刺激されたのか、ひとつのビジョンがはっきりと見えていたところだ。 このビジョン(目的)は、今回わたしが肉体的な死を迎えるまでに完成させればいい、長期的な計画だ。そして、現在自分はそれを実現させるために訓練をしているという自覚がある。 また、このビジョンは最近突然現れたのではなく、数年前から何度か夢でも見ていたもので、既に意識はしていたけれど、この一週間ほどの間により具体的になり、決意も固まった。そしてまたこの計画は、今回わたしが「終わらせるためにやって来た」目的のひとつでもある。…