父のこと

父のこと

父を担当しているケアマネージャーさんから突然電話がかかってきた。父が緊急搬送されて入院、転院したが、手の施しようがないと言われたらしいこと、認知症が進んで金銭管理ができなくなったため最近補助人が付いたこと、父の妻とはなかなか連絡つかず、彼女が父に関わるのを拒否していること等の報告を受けた。

父はこのまま亡くなる可能性もあるので、もしわたしが彼に会っておきたいならば急いだほうがいいかもしれないとのことだった。とはいえ、彼女自身も直接父の様子を見たわけではないので詳細はわからないという。補助人の連絡先も教えてもらったので、必要であれば直接彼女に電話をすることはできる。

ケアマネージャーさんとの面会と各種契約内容の確認も兼ねて、高齢者用集合住宅に入居したばかりの父を訪ねたのは昨年11月。やはりいくつか問題が生じていたので、施設の責任者も交えて話し合い、父の妻にも確認を取って、状況は一旦落ち着いた。しかし、わたしはそれ以降の変化は何も知らない。昨年12月以降、何度か父に電話をかけたが、彼は電話に出なかった。どうやら認知症が進んで携帯電話の扱いが困難になっていたらしい。ケアマネージャーさんにあれやこれやと質問をして、なんとか状況を把握した。

わたしにとっては突然の報告だった。しかし、自分が感情的にまったく揺さぶられていない、感情がもはや反応しないことに少し驚いた。父が電話に出なくなってからはうすうす予想していた展開でもある。淡々と質問を重ねて状況を再確認し、今後どのようにするか考ますと伝えて一旦電話を終えた。

たとえばもしこれが母のパートナーの生死に関する連絡であったなら、わたしは近々予定している旅や依頼や仕事等を調整し、高額な航空券を購入してでもなんとか日本へ行こうとしたかもしれない。しかし、今わたしにはそうする動機がない。本当に、感情がまったく反応しないのだ。

父とは共に暮らした記憶もないが、それでも以前のわたしには「父親に対する感情」があった。常に投げやりで自分自身にも他者にも向き合おうとしない彼に対し、怒って率直に言葉をぶつけたこともあれば、不憫に感じて手助けをしたことも多々あった。そして、わたしはもうやり尽くしたのだと思う。

たとえそれが怒りや恨みであっても、相手との間に何かしら感情的反応が生じるのは、自分の中に相手に対する「思い」があるということだ。それはまた、相手に対する執着や繋がりがあるということであり、相手との間に(そして自分自身との間に)「関係」を築きたいという望みがあるということだろう。

以前のわたしには父に対する「思い」があった。それは元は子から親に対する「思い」だったような気がするが、やがて一人間としての「思い」へと変化した。声をかけ、真剣に叱咤し、手助けをしてきた。しかし、彼はひたすら“おはなし”の中に閉じ籠ってすべてを拒否し、逃げ続けた。

そうしてわたしは幾度となくあきらめた。今にして思えば、わたしはあきらめ、そしてゆるしたのだろう。父をゆるすことはまた自分をゆるすことでもあった。繰り返し働きかけ、あきらめては、ゆるすことの積み重ねの結果が現在だ。わたしにはもう父に対する「思い」がないし、彼とは何も繋がりがない。

Show Comments