チェコへ移住する少し前のある日、満開の桜の下をさくらと母と共に歩いた時のことを、時々ふと思い出す。あの時わたしは彼女たちの後ろ姿を眺めながら「いつかこの光景を懐かしく思い出すことがあるだろう」と思っていた。
あの眺めはまるで絵画のように記憶の中で回帰する。
さくらが旅立った直後、4月に愛犬を亡くした友人とメッセージを交わした時、彼は今でも不意に涙がこぼれることがあると話してくれた。わたしも同じだ。少しづつ落ち着いてはきたけれど、ふとした時に悲しみがこみあげて涙が止まらなくなる。
さくらとの別れは、これまでに経験した祖父母や母や友人たちの別れとは比べものにならないぐらいに悲しくて、こんなにも辛いものかと驚く。
母との間においては、長い年月をかけて怒りも恨みも悲しみもあらゆる情を味わい尽くして昇華し、新たに対等な関係を築いた末に、自らの目と手で看取ったからか、彼女の死を見届けた後に悲しみはまったくなかった。祖父母の死を見送った時もやはり悲しみはあまり感じず、感謝の思いが先立った。
そう考えると、わたしはさくらのことをわが身のように思っていたのだろう。
破綻からこそ生まれるものがあり、破壊があってようやく再生は起きる。喪失が大きければ大きいほど、悲しみが深ければ深いほど、生まれるものもまた大きいのだろう。悲嘆もまたギフトだ。