チェコに移住する前の一年半ほどの期間、わたしはある役割のため、チェコと日本を行き来するだけでなく、あちこちへ旅をすることになった。そうして旅先では、なぜかいつもその場その時に出逢った人々から悩みを打ち明けられ、話を聞くことが多かった。中には友人となり、今でもたまに連絡を取り合う人もいる。
あれは、わたしが単独で旅をしていたからこそ起きた展開だったのだろう。旅人だったわたしは、彼らにとっては云わばマレビトであり、風であったのだと思う。
ある国では滞在したホテルのオーナーから家族に関する悩み事を打ち明けられ、別の国では自殺未遂をしたという若者から話を聞いた。ここ数年は用事も兼ねて日本へばかり出向いていたが、日本ではいつも誰かから打ち明け話を聞く機会が重なる。思えば昔からそうだった。
これまであちこちで多くの人から打ち明け話を聞いてきて感じるのは、悩みや問題の大半が、両親あるいは家族との関係に起因しているということだ。親あるいは家族との間に生じた(作り出した)感情と、それを受容できないが故の葛藤が、その後の本人の思考や行動、あらゆる選択に繋がっている。
自らで認めて受け入れることができずに抑圧した感情は、他者や物事に投影されて“型”となり、そうしてわたしたちは同じパターンを繰り返す。「親が、パートナーが、上司が、社会が、わかってくれない」のではなく、自分で自分をわかってやろうとしないが故に、常に他者に要求し続ける。
つまり、本人が“犠牲者”の立場でいようとする限り、どれだけ相手や場を変えたとしても同じことを繰り返すということだ。
幼少期に、親や大人たちに受け入れてもらえなかったり、思うように与えてもらえなかったり、ひどい仕打ちを受けたりしたことと、現在の自分がどうありたいかは、まったく別のことなのだが、これまでに話を聞いた人の多くがそれらを混ぜこぜにしていた。
さらに言えば、本人がそれらを半ば自覚的に混ぜこぜにしていて、“犠牲者”の立場でいるために都合のいい物語ができあがっていることも多かった。実のところ以前のわたしもそうだったので、なぜそうなるのかはわからなくもない。それは、自分が変わらずに済むからであり、その方が便利だからだろう。
自分が変わるとは、自分が信じてきた都合のいい物語を自らで破壊し、それまで拘っていた視野を脱して、新たに自分を再構築することだ。当然ながらそれには時間も手間もかかる。自分の中にある認めたくない部分や、受け入れがたい側面、つまりは自分にとって都合の悪いことを直視せざるを得なくなる。自分に向き合うのは大変なのだ。
しかし、それを避けている限り、自分は変わらないし、自分を取り巻く状況も変わらない。どれだけ相手を変え、どんなに環境を変えても、同じパターンを繰り返す。そこで、他者を責め、他者に要求し続けるのか、あるいは、自分のパターンに気づいてそこから脱するかは、その人次第だ。
以前、幼少期の傷について繰り返し話す人に、「確かにそうした事実はあったでしょう。でも、現在のあなたは成長していて、自分で自分を受け入れ、守ることができます。“幼少期に大人から受けた傷”を型にして、あなたを苦しめ続けているのは、実はあなた自身ではないですか?」と伝えたことがあった。
すると、その人はまるで何かから目が覚めたようにはっとしていた。“犠牲者”の立場に居続けようとする自分、自らにとって都合のいい“物語”に執着している自分に気づいたのだと思う。おそらく、“犠牲者”の立場でいることにすっかり飽きて疲れていて、そこから脱したいと思っていたのだろう。