悔いのない野垂れ死に

悔いのない野垂れ死に

‘野垂れ死に’という言葉はどうやらひとつのキーワードのようで、わたし自身が言ったり書いたりするだけでなく、わたしが共にいて愉快だと感じる人たちや、近い価値観や考え方を持っているなと感じる人たちから聞くことも多い。

わたしは8年前に「僅かでも気が乗らないこと、少しでも不本意なことは一切やらない、もしそれで生き延びられないなら野垂れ死にしよう」と決意して今に至る。結局わたしは今でも生き残っているし、むしろあの頃よりもずっと愉快に生きている。

決意した当初は、少ない貯蓄がひたすら減っていくのが不安で、「本意ではないけれど金を得るために働こうか」と思いもしたが、自分の中の不安を繰り返し認めて受け入れながら、不本意なことは一切やらないと徹底した。

現在わたしは仕事をしているけれど、金を稼ぐために働いているのではない。自分が「おもしろい」と感じる人たちとともに、やはり「おもしろい」と感じる目的のための活動に参加していると思っている。そうして仕事をしながら、やりたいことをやり、好きなように作りつづけている。

本当にやりたいこともやらず、ましてや自分が本当は何をしたいのかもわからないまま、金や立場を得るためだけに働くのなら、野垂れ死にする方がよほどいい。

「やりたいことやってそれで野垂れ死でも本望」「悩むのではなく野垂れ死しても作る」「野垂れ死に上等、悔いなしの野垂れ死に」という坂口恭平さんの言葉はその通りで、わたしもまさにそう思って生きている。野垂れ死にしてもいいとわかると、自分に期待しないし、執着もなくなって身軽なのだ。

昨年夏に会った友人の口からも「野垂れ死に(上等)」という言葉が飛び出したので、わたしは自分たちを『野垂れ死に同盟』と呼ぶことにした。最近別の友人からも「(自分は)南米あたりで野垂れ死にするイメージしかないけれど、それでいい」と聞いて、いいね、そうだよねと思ったところだ。

自分に期待をせず、自分に属する/所有していると思いこんでいるもの(金、モノ、人間関係、立場等々)への執着がないと、思い悩むことがない。自分への期待というのも大抵は理想や妄想の中の‘自分’を演じたいだけで、実際にはそうした理想や妄想=実際には自分ではないものへの執着でしかない。

誰かがわたしにコンタクトしてくる時というのは、何かしら思い悩んでいる時が多いが、思い悩んでいる人の大半は、自分への(そして他者への)期待が大きすぎるか、自分ではないものへの執着(犠牲者の立場も含む)から抜け出せずにいる。「自分なんてどんどん叩き壊して、やりたいことを好きなだけやって、どんどん作りつづけて、悔いなく野垂れ死にしよう」と思っている人は、思い悩むことがない。

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