意図と思いは別のもの

意図と思いは別のもの

以前はよく、実現させたいことを手帳に書いたり、新月のタイミングで箇条書きにしたりしていた。書いた後はすっかり忘れてしまうことが多かったが、後から振り返ると大半は実現していた。やがて書き出さなくても意図は実現するとわかり、手帳も使わなくなったので、そういう習慣も必要がなくなった。

書き出したことの中には実現しなかったことや、自分ではなく誰か別の人が実現したこともあった。そして、それらは結局わたしが本当に望むことではなく、「そうなれば〇〇に評価される」とか「社会的に価値が高い立場や報酬が得られる」といった他者の視点に基づく相対的自我の“思い”だった。あるいはそれらは「そういうわたしは社会的にかっこいい」とか「そういうことをしている自分が(他者からすてきだと思われるだろうから)好き」といった、自分ではないものによる“思い”と、単なる思いこみだった。

ある日そのことにはっきりと気づき、意図と“思い”の違いがわかった。現在の自分はいつでも別の時点の自分が意図した状態そのものだ。というよりも、意図は物理的な時空による制限を受けないので、わたしはいつでも意図のままだと言える。それがわかれば、“思い”は不要どころかむしろ足枷あるいは障害でしかないこともよくわかる。

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