写真を撮っていてもそうだけれど、絵を描いてみると、いかに自分が見ていないかがよくわかる。見たつもりになっているだけで、自分の中で勝手に都合よく編集し、変えてしまっている。何かを本当に見るには実に時間がかかるし、自分の中で無自覚に繰り返している機械的な解釈を止める必要がある。
本当に見るというのが、自分の中の機械的な解釈を止めてそのものになるまで観ることだとすれば、それはつまり、見ている間に自我が死んで対象そのものとなり、対象を統合した新たな自我になることではないか。そうしてさらには全体としての”自分”のまなざしに至ることではないか。
見るだけでなく、聞くことも、食べることも、本当はそういうことだ。何かを取り込むたびにそれまでの自我は死に、集合体としての自我に変容する。
解釈や思い入れだけで作られたものがつまらないのは、そうした「本当に見る、聞く、食べる」プロセスを経ていないからだろう。小さな自我の中にあるものだけで作られるものには栄養がなくて、おいしくないのだ。
何事も個をとおって普遍へと至るようなものこそおもしろい。