日本にあるのは政治ではなく中世と変わらぬ「まつりごと=芝居」

日本にあるのは政治ではなく中世と変わらぬ「まつりごと=芝居」

新型コロナウイルス禍において、日本の政府は最初から何も考えていなかったのだなと改めて思った。彼らはただ「都合の悪いものからは目を逸らす」「見ないものは存在しない」という欺瞞を自他にやり続けてきただけなのだろう。やはり、日本にあるのは政治ではなく、古代・中世のまつりごと=”おはなし”と芝居なのだ。

日本の行政の中枢にいるのは、日本の中でもとりわけ「自分を持たず、自分を殺して、立場・役割を生きる」ことに徹してきた人たちだ。自分を殺すという虐待を生き抜いてきた彼らは、「立場を生きる」というプログラムを再生しているだけなので、それ以外は自分で考えることもできない。前・現首相や東京都知事を見ればそれは明らかだろう。

しかし、行政の中枢にいる人たちが「都合の悪いものは見ない嘘つき」なのは、多くの日本人がそうだからだ。彼らは、わたしたちの影でしかない。わたしたち日本人の多くが、自分を持たずに立場を生き、都合の悪いものから目を逸らし続ける限り、このシステムは変わらない。

そして、どんなに目を逸らして「無いもの」にしても、たとえばウイルスという「現存するもの」が消えてなくなるわけではない。どれだけ自他を騙して都合を押し通しても、在るものは在り、起きることは起きる。新型コロナウイルスは、わたしたちが見ないふりをしている影の象徴(または影を否応なしにあぶり出すもの)のようだと思う。

コロナ禍の最中で強行されたオリンピックによって、長い間見ないふりをしてきたもの、見たくなかったものがどんどん暴かれていくのも、まさにその時なのだろう。多くの人が「無いもの」にしてきた「影」がいよいよ溢れだしただけだ。そして、それは社会全体だけでなく、個々にも起きているだろう。

自分を持たない嘘つきな政治家が、実は自分の影であることに気づいたなら、その影を統合していけばいい。そうして、自らが「無いもの」にしていたものを認めて、自分で自分を作っていくことだ。コロナ禍のオリンピックは、個が立場主義から脱出し、自らを自覚的に生きるためのよい機会かもしれない。

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