ある知人との間で思いがけず龍涎香の名が話題にのぼった。久しぶりに目にする名称に懐かしさを覚えながら、龍涎香に関する記事を検索していたところ、過去に少しだけ調香を教わったことがある調香師のブログにたどり着いた。初めて彼女のアトリエを訪ねた日のことを思い出す。
龍涎香はマッコウクジラ(抹香鯨)の腸内で形成される結石で、希少価値の高い香水の原材料として知られる。クジラが食べたイカの嘴など消化されない部位が粘性の分泌物で包まれて体外に排出され、その排出物が海中で固化したものだと言われている。先日、タイの海岸で散歩中の人が龍涎香らしき塊を発見したというニュースを目にしたばかりだ。
「龍涎香=龍のよだれ」という名前がいい。鯨の体内で作られる龍の涎だ。英語ではアンバーグリス(ambergris=灰色の琥珀)と呼ばれている。龍涎香は『千夜一夜物語』の中にも登場する。人間の足ではとても登ることができない山の奥地に、龍涎香が天然のまま湧き出す泉があると語られている。
龍涎香のことを思っているうちに良い香りを嗅ぎたくなり、手元にある数少ない天然香料の瓶を久しぶりに開けた。ラブダナム、オークモス、シストローズ、イリス、トンカビーン、ネロリ。特別に好きなものだけを選んで日本から持ち帰った。既に使用期限は過ぎているが、うっとりするような芳香ばかりだ。
過去に自分で調香した小瓶も出てきた。ヴェチバーとトンカビーンを基調にした深く甘く微かに苦い香り。雲ひとつない青空、果てしなく広がる砂漠、容赦なく照りつける陽射し、熱く乾いた風、白い駱駝にまたがる青の民、彼らが淹れる甘いミントティー。そうした想像の中の物語をひとつの香りに纏めたものだ。
ひとつひとつの香料は記号のようなもの。それはまた音のようでもある。それぞれの記号が特有の記憶やイメージを想起させる。そして、それらが組み合わさることにより場面が生まれ、物語が始まる。そうして作られた香りは、形を持たない詩、鳴らない音楽として、新たな記憶を呼び起こし、意識を旅へと羽ばたかせる。
龍涎香の話題から多くのことを思い出した。
また自分の愉しみのために調香を再開したくなった。