感覚の記憶

感覚の記憶

空を眺めていたら猛烈に眠くなり、横になったら幾つもの感覚が溢れるように蘇った。幼少期に味わった春の陽射し、旅先で味わった海風、どれも一人で味わったもの。あたたかく、まぶしくて、ここちよい感覚の記憶。そういう感覚の束が超高速のスライド映像のように一気に蘇り、静かに溶けていった。

写真も、絵も、文章も、音楽も、何かを創造するのは、そうした「わたし」の中にある説明しえない感覚の記憶を形にする行為なのだろう。「わたし」が一人で味わった、わたしだけの感覚が、形として再現=創造される。そういう創造物はおもしろいし、そういうものだけに触れていたい。

不意に蘇る感覚の記憶はいつも一人で味わったものばかりだ。そこには他者の存在はない。たとえ誰かと共にいた間の記憶であっても、わたしの感覚はわたしだけのものなのだから当たり前のことではある。こういう体験をするたびに、わたしとは、社会の中の相対的自己ではないと実感する。

また、わたしとは感覚でもない。ましてや、わたしは感情でも思考でもない。わたしとは、あらゆる感覚がやってきては流れていく空間であり、わたしはすべてを含んでいる。

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