2021-01-02

2021-01-02

母が死んでから、過去のわたしがいかに無自覚なまま他者の思いにあわせて自らの言動を制限していたかが、ますますよく見えるようになった。たとえば「正月は家族で祝うものだ(だから自分もそうしたい)」という彼女の思いこみに応えて帰省していた過去のわたしは、無自覚に自分を形式(立場)の中に閉じ込めていたのだ。

以前に「『冥福』の語源や意味も知らないまま、勝手に冥福を祈って押しつけなられるのは不快だ」とTwitterやFBに書いたことがあった。その起源や由来を自らで調べもせずに、ただそれが慣習だからと機械的に倣うこと、そしてそれを押しつけられることが、わたしには不快なのだと改めて気づいた。

そんなことを思いながらシャワーを浴びている間に、いかに過去の自分が、実は誰のものでもない指向性に支配されていたかを改めて思った。たとえば「わたしは○○が好きだ」と思っていたことの多くは、環境や習慣によって染みついたパターンまたは癖でしかなかった。

過去のわたしは、そうしたただの肉体的な癖による機械的な反応を「これがわたし(の志向性)だ」と思いこんでいただけだ。つまり、”眠ったまま”だったということだ。そして、”眠ったまま”だったのはわたしだけではない。周囲にいた大半の人々がそうだったし、その多くは今も変わらず”眠り”つづけている。

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