諦観

絵であれ、音楽であれ、言葉であれ、無自覚な思い込みや信念の枠に閉じた創作はつまらない。 なぜなら、そこには自己想起がないからだろう。 言うなればそれは「わたしは機械です」と繰り返し述べているようなものだ。 作る人自身の中に破壊と再生、変容がなければ、すべてただ流木のままである。 「藝術は深さとか強さとかを取るべきではない.『諦』である.」 ― 髙島野十郎 「諦」は仏教において真理を意味するそうだ。 「諦める」とは「あきらかにみる」こと。…

描くことは見ること

見えていなかったもの(参考写真でもはっきりとは見えていない)が見えるようになり、隠れた部分の構造を明らかに見誤っていたことに気づいたので、半部以上描き進んでいた絵を大幅に描き直している。別紙のスケッチからやり直したのはよかった。 小さな違和感を残したまま無理に終わらせても、それはただの嘘になる。 また、違和感を無理に丸め込んで纏めようとすると、結局は全体が壊れてしまう。 違和感は、自分が何かを見誤ったり、見落としたりしていることを示すサインだ。 描くたびに、見えなかったものが見えてくる。 そうして、自分がいかに“見ていなかった”かに気づく。 それはまた、自分の見誤りや見落とし、さらには、それらを引き起こしている自らの無自覚な思い込みに気づくことでもある。 そうした“自分”の枠が壊れて初めて、わたしは本当に見ることができる。 "Everyone has many associations with a flower — the idea of flowers. You put out your hand to touch the flower — lean…

ジャン・シベリウス 交響曲第5番 変ホ長調 作品82

昨年からオーケストラの定期演奏会のパンフレットの表紙絵を依頼してくれている友人から、次の演奏会に向けて新たに絵の依頼を受けた。彼は音楽、わたしは絵画、創作を通じてこんな風に関わり合うことができるのはとても嬉しい。出逢った頃には、彼と自分がこんな風に繋がれるなど想像もしていなかった。 今回のテーマであるシベリウスの交響曲第5番は、フィンランド政府の国家的行事として計画された彼の50歳の誕生日祝賀コンサートに向けて作曲され、計画通り1915年12月8日に初演されたそうだ。第一楽章のはじまりから、澄んだ朝の光と晴れ渡る空を思わせる、清々しくも精妙な気配を感じる。 彼がこの交響曲に取り組んでいた間に残した日記を少し読んでみた。 1915年4月15日、フィンランド、アイノラ 夕方、この曲に取り組む。主題の配置。この神秘と魅惑への重要な取り込み。まるで、父なる神が天の階からモザイクのピースを投げ落とし、その絵がかつてどのように見えたかを解くよう私に求めたかのようだ。 1915年4月21日、フィンランド、アイノラ 10時から11時にかけて、私は16羽の白鳥を見た。私にとって最も素晴らしい…

肉体的な死までに完成させる目的

Google Photosがいくつかの虹の写真とともに、昨年描いた二重の虹の絵を再表示してきた。昨年2月に夢の中で見た光景。今思うと、あれはアルクトゥルスの示唆だった気がする。 現在ジオセントリックでは太陽と海王星は魚座28度で合。ということは、魚座27度にあるわたしのネイタル木星にもしばらく合だったようだ。ここ数日、ある日本の画家の作品を改めて知ることが続き、それに刺激されたのか、ひとつのビジョンがはっきりと見えていたところだ。 このビジョン(目的)は、今回わたしが肉体的な死を迎えるまでに完成させればいい、長期的な計画だ。そして、現在自分はそれを実現させるために訓練をしているという自覚がある。 また、このビジョンは最近突然現れたのではなく、数年前から何度か夢でも見ていたもので、既に意識はしていたけれど、この一週間ほどの間により具体的になり、決意も固まった。そしてまたこの計画は、今回わたしが「終わらせるためにやって来た」目的のひとつでもある。…

苦戦と発見の繰り返し

海、特に波打ち際のある風景を描くたびに、自分が波の構造を十分に理解していないことに気づく。そもそも海を存分に眺めたことがないのだから無理もない。海をじっくり眺めに行きたい。さまざま季節、時間、天気の海を観察したい。 数日前から描いている絵の海と波飛沫がどこか不自然に感じられて、描いては修正し、消しては重ねてを繰り返すうちに、まったく違うことを試したくなり、ふと濃い紫色を使ってみたらしっくりきた。違和感を払拭するのに苦心すると、絵の進行は遅くなるが、いつもこうした発見に行きつくのがおもしろい。 海にも空にも、思っているよりもずっと多くの緑と紫が潜んでいる。 後になって、緑と紫の油絵具を混ぜて青い海と空を描くYou tube動画を見つけた。…

美的感覚

わたしが撮った写真や描いた絵を見た人から、「日本的美意識を感じる」と言われたことがこれまでに何度かある。自分で意識していなくとも、生まれ育った環境の影響は滲み出るものなのだろう。 昨日何気ない会話の中で、自分が特に惹かれる画家の名を7人挙げたところ、そのうち3人が日本の画家で、自分でも意外だった。最も長く暮らした地は日本なので、それ故に日本の芸術家をより多く知っているだけかもしれないが。…