
エウヒェン・ヤンソン(Eugène Jansson, 1862–1915)は、19世紀末から20世紀初頭のスウェーデンを代表する画家の一人だ。
彼は14歳の時に猩紅熱に罹患し、その後一生涯、視力や聴力の低下、慢性腎臓病などの後遺症を抱えることになった。また、若くして父親を亡くし、一家の家計を支える重責を負うこととなる。当時、北欧の画学生たちの多くが芸術の都パリへ留学する中、彼は貧困と病弱さゆえにストックホルムを離れることができなかった。
ヤンソンは、当時ストックホルムの中では貧しい地域の一つだったセーデルマルム地区(Södermalm)に暮らし、その高台から見下ろす夕暮れや夜明け前の風景を深い青のグラデーションで描き続けた。そうしてやがて彼は「青の画家(Blåmålaren)」と呼ばれるようになる。


1886年、保守的で古い体制だったスウェーデン王立美術アカデミーに対抗し、若い改革派の芸術家たちが反対運動を起こし、「Konstnärsförbundet」という芸術家協会を設立した。ヤンソンも創立メンバーであり、さらには運営委員も務めた。同じく協会の創立メンバーであり、ヤンソンの親しい友人でもあった画家のカール・ノードストレム(Karl Nordström)や、ヤンソンの才能をいち早く見い出したネルケ公爵エウヒェン王子(Prins Eugen)の紹介によって、彼は富豪の美術コレクターであるエルネスト・ティール(Ernest Thiel)と出会う。ヤンソンの「青の時代」の作品に強く魅せられたティール氏は即座に作品を購入し、彼は長年の経済的苦難から脱することとなった。

1900年以降、彼は一転して「太陽の下で躍動する男性の肉体」を描くスタイルへと大きくシフトする。持病に悩まされた彼自身の健康な肉体への憧れや、同性愛者だった自身のアイデンティティ(当時スウェーデンで同性愛は違法であり、見つかれば投獄される可能性もあった)が反映されたとも言われている。前半生の「静寂の青」と後半生の「眩しい光と生命力」という鮮やかな対比も、彼の画業における興味深い面だ。



私は彼の「青」に惹かれてやまない。その「青」は決してこちらに向かって押し迫ることはなく、ただ深い静寂を湛えている。作品の前に立つと、まるでその奥へと誘われるようだった。彼の作品には、しんとした孤独と同時に、魂の故郷を垣間見るような安堵あるいは郷愁を覚える。
