ぜんぶわたしだった
ぜんぶわたしだった あの人も あの犬も あの鳥も あの花も あの海も あの雲も あの風も あの星も ぜんぶがわたしだった ではいったい ほんとうのわたしなどというものはどこにあるのだ…
ぜんぶわたしだった あの人も あの犬も あの鳥も あの花も あの海も あの雲も あの風も あの星も ぜんぶがわたしだった ではいったい ほんとうのわたしなどというものはどこにあるのだ…
とっぷりと暮れた夜の空に まっくろな円が浮かんでいる ああ月だと思ったけれど よく見れば光の炎に包まれている どうやら皆既日食らしい その下にはまんまるの月が ぽっかりという風に浮かんでいる いよいよ見に行かねばと思い いそいそと靴を履く すっかり小さくなった犬が 足元を走り回っている おかあさんがそばにいたけれど 死んでしまって話ができない ひとりで外へ駆け出した 空気がみっちりつまっているから かきわけるようにゆっくり歩く まっくろな円は光をまとって 近づいたり遠ざかったりする 皆既日食と満月が並ぶなんて 月が二つになったのだろうか ここは別の惑星かもしれない ぐんと身体が縦に伸びる 強い力にひっぱられる ちぎれそうなほど細長くなって いつしか光の筋になる 皆既日食が近づいてくる 満月をひらりと飛び超えて まっくろな円に吸い込まれる 鍋が割れる音で目が覚めた…
太陽が地平に近づいたら アマツバメたちの宴がはじまる 疾風のようにやってきて 瞬く間に彼方へと翔る たちまちのうちに高く昇って くるくる回って呼んでいる ぴぃぃぃぃ ぴぃぃぃぃぃ ぴぃぃぃぃ ぴぃぃぃぃぃ おなかの中が熱くなって 躰がぶるぶる震えだす 輪郭がさらさら崩れ落ちて 風の中へ消えてしまう いつの間にか龍になっている アマツバメたちが鼻先で遊んでいる ああそうだったと思い出したら アークトゥルスが光りはじめた…
池の周りに河童が数匹 何をしているかしらないが みなめいめいに働いている 河童の躰には贅肉がなく その動きには迷いがない 池の向こうから男が一人 釣竿を肩にかけている 河童がすばやく男を捕らえ 池の中へ引きずり込む 男は声すら上げられない 完璧だった 一瞬だった 天晴だった 恐ろしかった 男の体は河童に喰われ 河童を作る材料になる 河童になる 河童になる…
木で組まれた簡素な小屋で 男が最後の飯を待っている どんな罪を犯したのか これから死ぬことになっている 料理係は浅黒い肌の女 がっしりと豊満な体つき いとも長閑やかな動きで 四角い膳に飯を載せる 小屋の中には骸骨が一体 過去に処刑された者らしい 男は骸骨に見つからぬよう 柱に隠れて食わねばならない 熱帯樹の枝の上では 極楽鳥が下界を見ている 骸骨が飯の匂いを嗅ぎ かたかたぎこちなく動いている 女はまるで平気な顔で 慣れた手つきで飯を運ぶ 男も肚の据わった素振りで 粛々と匙を口へ運ぶ 鳥が啼く 骸骨が笑う 雨が降る 慈悲が降る…
気づいたら川沿いの道を歩いていた ゆったりと流れる大きな川は濁った青緑色 向こう岸には深緑の森が広がっている 誰もいない とても静かだ ぽつんと小さな魚屋があるのを見つけた 陽はまだ高いがもう店じまいをしている 発泡スチロールの上に置かれたホタテ貝 乳白色の立派な貝柱に引き寄せられる まだホタテ貝はありますかと尋ねた 水を撒いていた女性が無言でうなずく 六つ、七つ、いや、九つくださいとお願いする きっとそのまま刺身で食べるだろう 九つのホタテ貝をぶら下げて歩いた 視線の先でカーブを描く白いガードレール 川は無言でゆっくりのたうっている 誰にも会わない とても静かだ どこへ向かっているわけでもなかった 午後の空気が浅葱色に染まっていく 川を渡るという声が聞こえる 鉄塔がそびえる角を曲がることにする 気づいたら視点が上昇しはじめた 一瞬で高く昇って鳥のように世界を見下ろす どうやらカノープスに乗ったらしい 舟で九つのホタテ貝を食べよう…