高く聳えるマーブル柄の山の上で「誰もがあなたのことを知っている」と言われる夢

夢の中で、山に向かっていた。何かしらの乗り物を運転して高速でカーブを曲がりきった後、角を右に曲がった時にはわたしは歩いていた。道の脇ではベルトコンベアのようなもので食材が山の上へと運ばれていた。角を曲がる前に見たのは大量のキャベツだったが、角を曲がるとバナナに入れ替わっていた。 前方には薄茶色からベージュそして白のグラデーションを描く高い山が聳え立っていた。山肌はマーブル模様のようだったかもしれない。空の色も淡く、風景全体がまるで絵画のように美しかった。 次の場面ではわたしは山の上にいた。そこには学校のような研究所のような巨大な施設があり、たくさんの人々が働いていた。わたしはそこで授業か何かに参加するようだった。手首の腕時計を見ると針が止まっており、スマホも見当たらないので、時間が分からなかったが、特に困らないなと思っていた。 いくつかある建物のひとつは巨大な食堂と売店になっていて、わたしはそこで朝食を買うことにした。売店でジュースを選んでいると、知らない女性がにこにこしながら近づいてきて、「誰もがあなたのことを知っている、あなたは着物を最も美しく着こなす人として知られていますよ…

自分を持つとは、自分の言葉を持つこと

ある人とのやり取りの中に「自分の考えや感覚を適切な言葉に変換するプロセスに時間がかかる」とあったので、言語化にも訓練が必要なのだと答えた。訓練とは、自分の感覚や感情にふさわしい言葉を探して選ぶだけでなく、自分の中の言葉のストックを増やすことも含まれている。アウトプットのためには、インプットが不可欠だ。 たとえば、もし「悲しい」という言葉を知らなければ、自分の中に痛いような辛いような苦しいような感覚が生じた時に、一体どのように表現すればいいだろうかと想像してみる。言語を習得していない乳幼児などはまさにその状態を体験しているのではないか。 そう考えると、わたしたちは言葉を習得することによって、自らの感覚や感情を認識するようになるとも言える。「悲しい」という言葉を知り、その言葉に対する共通認識を自分の感覚や感情にあてはめることによって、「わたしは今、悲しいのだ」と気づくことができる。 しかし、それは同時に、わたしたちは言葉にとらわれやすいということでもある。実際にはもしかすると他にもっとふさわしい言葉が見つかるかもしれない感覚を、「わたしは悲しい」と言葉にすることによって、「悲しい」と…

名という呪

西洋では子に親や先祖と同じ名をつける(そして、キリスト教信者でなくてもキリスト教の聖人の名をつける)ことは割とよくあることのようで、チェコでも時々、おじいさんとお父さんと息子がみな同じ名前というケースを見聞きする。 たとえば、Vの従弟の名はJanで、彼らの祖父の名もJanだ。Janはチェコで最も多い名のひとつだろう。わたしにはチェコ人の同僚が4人いるが、そのうち2人の名もJanだ。人が多く集まる場所で「Honzo!(Janという名の人につけられるニックネームの呼格)」と大きな声で呼びかけたら、いったい何人の人がこちらに顔を向けるだろう。 多くの人に聖人の名がつけられるということは、そこに何かしらのアーキタイプが存在するという風に見ることができるかもしれない。たとえば、Janという名を持つ人たちに共通するアーキタイプがあるとして、それはもしかすると、歴史上の有名な“Janさん”たちの共通点を探すことによって発見できるのではないか。 また、あらゆる意識は型によって共鳴するという考えに基づくと、聖人と同じ名を持つというのは、その聖人が強く打ち出した要素に共鳴する/それを共鳴によって呼び…

夢の中で死者に会い、死者に尋ね、死者から受け取る

"Painters —to speak only of them— being dead and buried, speak to a following generation or to several following generations through their works. [..] In the life of the painter, death may perhaps not be the most difficult thing."— Vincent van Gogh 以前、ある音楽家が、音楽を演奏するのは死者との共同作業なのだと書いていたのを思い出す。彼はさらに、それを「暗喩ではない」と書いていた。…

アトランティス、スピカ、海王星

今わたしがやりたいのは、古代と未来が型共鳴をする「型」を作ること。それは依代を作ることでもある。型はまた、この地上においても共鳴するもの同士を引き寄せあうだろう。そう考えると、型づくりとは、思っている以上に壮大な計画かもしれない。そこには、相対的自己、陰陽を超える意図が働いている。 失われた記憶を掘り起こすことは、まだ見ぬ遥かな未来からのメッセージを受け取ることと同じ。それらを繋ぐのは意図である。…

死ぬことで完結するような仕事

「生き物はね、死んで初めて、用を足すのさ」 「あなたもね、死ぬことで完結するような仕事をしたらいいですよ」 これは、田口ランディさんの短編集『ドリームタイム』に収録されている『肉の花』に登場する宮下のおばあちゃんの台詞だ。十年以上前に読んだこの短編に登場する人物の言葉は強く印象に残るものが多く、わたしの中で何度も繰り返し蘇る。 今日シャワーを浴びている最中にふと、死ぬことで完結するような仕事とは、意図のことではないかと思った。それは、自らの意図を明確に打ち出し、意図を実現するために生きて、意図そのものになること。なぜなら、意図はその人の人生だけでなく死後をも導き、そして、その人が死んだ後にも残って生き続けるからだ。…