朝霧高原で出逢った人と

前回木星が魚座を運行していた頃、わたしはたまたま訪れた本栖湖と朝霧高原、浅間大社がすっかり気に入り、それからは年に何度もあの辺りを訪ねていた。特に本栖湖の水の色と気配が大好きだった。 あの頃朝霧高原で出逢った人と、半年ほど前からメッセージのやり取りが再開して、最近もよく話をしている。造形作家であり、アートの指導もしているその人に、先週からわたしが描いた絵を見てもらっている。彼は、わたしが絵を描くこと、そして写真や言葉をとおして何をやりたいのか、どこへ向かいたいのかを理解しているので、絵を見せて話すのが楽しいし、アドバイスも的確で、愉快だ。 そういえば、南ボヘミアの雰囲気は、朝霧高原周辺のそれにどことなく似ている。あそことここは、どこかで繋がっているのかもしれない。または相似形、型が同じなのかも。…

より上位の個性を目指すなら

「手癖で弾く」とか「手癖で書く/描く」という言葉があるように、見ること聞くことにも無自覚に繰り返してしまう癖というのがある。考え方の癖や、感情の癖も同じだ。上位の意識を通すためには、この癖を自覚して取り除く必要がある。 個性にも層があり、より上位の個性を発揮したければ、機械的な癖やローカル性を自覚化して取り除く/脱する必要があるということだ。…

個を通って普遍へ至る

写真を撮っていてもそうだけれど、絵を描いてみると、いかに自分が見ていないかがよくわかる。見たつもりになっているだけで、自分の中で勝手に都合よく編集し、変えてしまっている。何かを本当に見るには実に時間がかかるし、自分の中で無自覚に繰り返している機械的な解釈を止める必要がある。 本当に見るというのが、自分の中の機械的な解釈を止めてそのものになるまで観ることだとすれば、それはつまり、見ている間に自我が死んで対象そのものとなり、対象を統合した新たな自我になることではないか。そうしてさらには全体としての”自分”のまなざしに至ることではないか。 見るだけでなく、聞くことも、食べることも、本当はそういうことだ。何かを取り込むたびにそれまでの自我は死に、集合体としての自我に変容する。 解釈や思い入れだけで作られたものがつまらないのは、そうした「本当に見る、聞く、食べる」プロセスを経ていないからだろう。小さな自我の中にあるものだけで作られるものには栄養がなくて、おいしくないのだ。 何事も個をとおって普遍へと至るようなものこそおもしろい。…

どの色も他のすべての色を含んでいる

パステル画を描きながら、目で見て感じている色の背後には、たくさんの見えない色が広がっていることに気づいた。そうして、ひとつの中には全体のあらゆる要素が含まれているということを思い出した。 どんなに掛け離れて見えるものの中にも、互いの要素が含まれている。分離して見えるものも、対立して見えるものも、すべて同じところにあり、どちらも等しく同じ要素を有している。人がそれを都合にあわせて分離し対立させているだけだ。…

パステル画を描きはじめた

唐突に絵を描きたくなり、一週間前から毎日パステル画を描いている。パステルを手にするのは初めてだし、絵を学んだこともないけれど、毎日描き続ければ少しは描けるようになるのではないかと思っている。 「わたしには絵など描けない」と長い間思いこんできたけれど、描くことは予想していた以上に楽しくて驚いている。毎日数時間、ひたすら見て、描いて、見て、描いて、見て、描いて、我を忘れて没頭する時間はとにかく愉快だ。描きたいもの、作りたいものがあるので、日々練習していく。…

ベッドで寝ている母の洗濯物を整理する夢

二度寝をしたら、久しぶりに夢の中で母に会った。 建て替えられる前の昔の実家の2階にあった母の部屋に入ると、母がベッドで眠っていた。わたしは彼女がそこにいるとは思わなかったので少し驚いた。部屋の中には洗濯物が散らかっていて、テレビと電灯がついたままになっていた。わたしは、散らばった衣類の中から、洗濯済と思われるものと、まだ洗濯されていないものとを分けていった。母のパートナーが作って取り付けたと思われる室内干し用の竿やラックにも、いくつかの衣類が掛けてあり、一部は脱いだままのようだった。脱ぎ捨てられていたブラウスは皺にならないよう広げた。まだ湿っているスウェットパンツ2つを窓の外に干そうとしたが、雨が降っていた。仕方ないので室内に干そうと広げたところ、パンツの中からぽとりと濡れた使い捨てカイロが落ちた。さらに両裾にもカイロが貼り付いたままになっていたので剥がしたら、ずっしりと重かったパンツはすっかり軽くなった。 ベッドの中で「疲れた…もう嫌だ…」という様相で寝ている母に、いつこの部屋に戻ってきたのかと尋ねたら、「〇〇さんたちの〇〇の後」というようなことを言っていた。どうやら誰かの要望に…

善でもなく悪でもなく

いつも善人であろうなどとは思わないことだ。そもそもそんなことは不可能なのだから。 善だけを自らに望むのは、それ以外を悪にするということであり、善を求めれば求めるほど、悪をますます作り出す。しかし、その悪は認められないが故に影となり、他者に投影され、外側から現れる。 善のみを求めると、人は自分あるいは他者を殺すことにすらなる。なぜなら、善だけを求めるのは、世界を善悪という二極に分断し、一方のみを受け入れ、他方を否定することだからだ。しかし、善も悪も相対的なものであり、光と影はグラデーションで繋がっている。 自分を分断するのではなく、自らの内にある善も悪も認めて初めてわたしたちは真人間となる。自らの内にある善も悪も等しく認めること、すなわち自らの影を統合することは、下降と上昇どちらもの動きをより自由にする。…