死者のまなざし
ふとした時に死者の視点で世界を眺めているような気がすることがある。まだ生きているつもりでいるけれど、実は肉体的にはとっくに死んでいるかのような感覚。ひたすらにしんとした心地。 そして生と呼ばれる側のすべてがあまりに儚い幻として見える。何もかもが一瞬で移ろい消えていく。 永遠は死と呼ばれる側にある。ということは、ポエジーは死の中にあるということだろう。それは死の側から見る生、あるいは死と生を見渡すまなざしかもしれない。…
わたしがあれらのわたしであったからこそ出会ったのだろう人々や場所や体験を振り返るとこれはこれでよかったのだと思う。 背後へと電車は進むゆらゆらといつかの記憶をたどるまどろみ…
Sakura at Our Friends' Garden, March 2022 6×6 Driftwood Pinhole Camera Fomapan 100…
夢の中で幼なじみと一緒に旅をしていた。わたしたちは集団で旅をしているようだったが、途中で彼女が風邪をひいたかウイルスに感染したかで発熱したため、集団から抜けることになった。わたしも彼女と一緒に抜けることにして、どの交通手段を使ってどのルートで彼女を連れて帰るかを考えていた。 荷物をまとめたわたしは、見たことのないワイドパンツを身につけ、珍しくハイヒールの靴を履いていた。外は夜で雨が降っていた。外では送迎の車が待っていて、背の高いドアマンが待機していた。 車の中でわたしは「古い知人の男性があの辺りに住んでいたから電話をすれば迎えに来て送ってくれるかもしれないけれど、やめておこう」と思い、そのことを幼なじみに話していた。わたしはひとまず電車に乗って彼女の家がある方へ向かうことにし、さらに彼女の家族に途中まで来てもらうことにした。 別の夢だったかもしれないが、陸地の形や縮尺が通常とは異なる世界地図を見ながら、わたしが現在暮らしているチェコはここだと、誰だったかはわからない女性に説明をしている場面もあった。…
Sunset over the Lake Jordán, February 2022 6×6 Driftwood Pinhole Camera Fomapan 100…
ぜんぶわたしだった あの人も あの犬も あの鳥も あの花も あの海も あの雲も あの風も あの星も ぜんぶがわたしだった ではいったい ほんとうのわたしなどというものはどこにあるのだ…
ふとした時に死者の視点で世界を眺めているような気がすることがある。まだ生きているつもりでいるけれど、実は肉体的にはとっくに死んでいるかのような感覚。ひたすらにしんとした心地。 そして生と呼ばれる側のすべてがあまりに儚い幻として見える。何もかもが一瞬で移ろい消えていく。 永遠は死と呼ばれる側にある。ということは、ポエジーは死の中にあるということだろう。それは死の側から見る生、あるいは死と生を見渡すまなざしかもしれない。…
Swan, March 2022 6×6 Driftwood Pinhole Camera Fomapan 100…
Leica R6.2 Summicron R f2/50mm Fomapan 400…