彼/彼女という第三人称

職場のメンバーと言語について話していたら、一人がわたしに「なぜ日本の人は、英語の会話の中でよくhe/himとshe/herを間違えるのか」と尋ねてきた。実際にわたしも、自分では「彼女が」と言ったつもりが「he」と口にしていて、会話の最中に指摘されたことがある。

それで思い出したのは、日本で母を含めて数人で話をしていた時のことだ。母について何かを尋ねられたわたしは、隣にいた母を示しながら「彼女は~」と説明しながら、ふと「日本語の会話ではこういう呼び方はあまりしないかもしれない」と感じた。

「彼/彼女」という日本語の人称代名詞は、書き言葉では目にするけれど、会話の中で使われることは少ない。

さらに同じ同僚から「では、日本語では『彼/彼女』という言葉を使わずにどうやって会話が成立するのか」と尋ねられた。多くの場合、固有名詞(名前)または肩書・役割名が用いられるか、場合によっては指示代名詞が使われている。そして、主語や目的語が完全に省略されることも少なくない。

もしかしたら、そういった母語(日本語)の特徴が、わたしをはじめ日本語話者が英語会話の中でheとsheを無意識に混同してしまう原因かもしれない。

たとえばチェコ語は、主語の人称と数に従って動詞がそれぞれ語形変化する(だから、主語を省略しても動詞の形で人称と数は明確に示される)。そういう母語を持つ人にとって、「○○さんは~へ行きましたか?」という問いに「行きました(went)」と答えるだけで会話が成立する日本語会話は時に不可解だろう。

新しい言語を学ぶたびに、日本語との構造の違いに気づき、そうして母語に関しても新たな視点を得る。

【追記】
大津栄一郎著『英語の感覚』によると、「he」の訳として「彼」という言葉が定着したのは大正末期で、明治時代までは「彼」という代名詞は男女両方に使われていたそうだ。「彼女」という言葉はあったものの、多くの場合「かのおんな」と読まれていたらしい。ということは、日本人にとって「彼/彼女」という言葉と概念はまだなじみが薄く、実感が伴いにくいのではないか。

坂板元著『日本人の論理構造』には以下のような記述があるそうだ。

「日本語の代名詞が多くて用法が難しいことはしばしば議論されることである。ところが、面白いことによく見ると、それらは一人称と二人称に関してのみで、三人称の代名詞は昔からほとんど発達していない。現在でも彼・彼女という典型的なものでさえ、実際にはあまり使用されず、まだ純粋な日本語としての感覚を持っていない。結局、三人称の代名詞は複雑な一人称・二人称に比べ、使用率は非常に低い。これは、face to face の関係、触知的な距離の間にしか代名詞が発達せず、しかもその人間関係では、えらく用語が複雑であるということは、自己と相手(一人称と二人称)の距離はその場、その時によって変化するものとして意識されるためであって、やはり皮膚感覚の領域内と外の区別が激しいからなのであろう。」