ウイルスには都合も気持ちも通用しない

母から、町内の老人会のメンバーと集まって食事をしている写真が送られてきて、言葉を失った。「アメリカと欧州が大変ですね。もちろん日本も。」と書かれていて愕然とする。

事実を気持ちに変換して抽象化し、自らの感覚と感情(つまり都合の悪いもの)はなかったことにして、当事者ではないと思いこむ。これは、日本語圏で生きる大半の人たちが数千年もの間延々と繰り返してきたプログラムだ。

しかし、ウイルスには「ご都合」も「お気持ち」も通用しない。

「2週間後には日本も欧州やアメリカと似た状況になるだろう。既に感染が広まっている中で、個人にできることは、外に出ない / 人に会わないことだけだ。若者でも場合によっては死ぬし、重症化すれば後遺症が残る可能性もある。自分が感染するかもしれないだけでなく、他者とその周囲を感染させるかもしれないという自覚を。」と返信した。

すると、すぐに「外から見た日本の状況を教えてくれて感謝します。怖いから、明日出かけるつもりだった予定はキャンセルしました。」と返事があった。

日本政府は「正しく怖がれ」などと言っていたようだが(感情を抑圧せよというまるで排泄を管理するような気持ち悪い言葉だ)、感覚や感情に「正しい」も「間違い」もない。「怖い」のであればそれを正直に認め、当事者としての自覚を持って、しっかり自分で防衛するのがまっとうな行動だ。

スサノオという奔放な感情と意志を持つ存在をひたすら無視し、自らは一切関わらないまま、彼を去勢し排除させたアマテラス。これはそのまま、わたしたち日本語圏で生まれ育った人間の態度を表している。わたしたちの中には、神話の時代から変わらないこの「プログラム」が機能しつづけている。新型コロナウイルスは、延々と繰り返されてきた「機能不全のプログラム」を貫き破壊する力だろう。

「在る」ものを「在る」と認めなければ「自分」すらないまま浮遊するだけ。求められるのは自覚と自立、自らの意志で思考し行動することだ。