事実と情緒は別のもの

他者(特に政府や政治家等)を批判する文章の中で時々目にする「こんな~で恥ずかしい」という表現にずっと違和感を覚えていたが、その感覚が不意に言葉になった。

これも、物理的事実を情緒に変換するという言語(日本語)の作用ではないか。

目の前にある物理的事実と、それに対して生じる個々の情緒は別のものだ。事実と情緒を混ぜこぜにすると、事をありのままに認め、それに対して主体的に決断し、行動することが難しくなる。さらに言えば、事実を認めないまま目を逸らし、自分を欺くことができてしまう。「恥ずかしい」と感じるかどうかとは関係なく、事実が「在る」としっかり認めることによって、ようやくわたしたちは思考と行動を始めることができる。それは、たとえ不快な事実であれ、目に映るすべてを自分事として引き受けることだ。

このことをパートナーに話していたら、チェコでも現首相に対する批判の中に「恥ずかしい」という声があるそうで、それに対し、チェコ海賊党の党首がわたしとほぼ同じことを言っていたそうだ。