ステージの上に異世界への扉が開き、ホール全体が巨大な渦に吸いこまれたかのようだった。演奏を聴きながら「彼は魔王だ」と思った。または、おそろしいほど静かな闇の中で自ら燃えつづけて輝く恒星だ。わたしはあんな音を奏でる人を他には知らない。
彼の音は底なしの静寂を突きつけ、徹底的な静止を要求する。陶酔や依存を決してゆるさない音だ。そうして、その音は聴く者を否応なしに異世界へと連れ去ってしまう。呼吸すら忘れるほど集中して聴き入らずにはいられない、そういう音と演奏だった。
第2部には空席がちらほら目に入り、私の前に座っていた男女も席に戻ってこなかった(第1部の途中で女性の表情が「無理だ」と無言で訴えていた)。あの音と演奏に耐えられない人がいるのもよくわかる。表面的に”楽しむ”ことを全くゆるさない音楽だからだ。そういう意味で、彼の音楽はきわめて厳しい。
それにしても彼の演奏は凄かった。彼が奏でる音は垂直方向と水平方向に同時に広がり、まさにそこで「音楽」が生み出されていく様が目に見えるようだった。強弱、明暗、高低、柔らかさと激しさ、長さと広がり、間合など、あらゆる細部が驚異的な精度で制御されていた。どんなに多くの音が重なってもそのハーモニーは決して濁ることはなく、どれだけ激しく鍵盤を叩いてもその音はまっすぐに響く。特に低音域の和音の深みと美しさは際立っている。また、弱音の繊細さと透明感にも感嘆しっぱなしだった。
Ivo Pogorelichの音楽は禅問答みたいだ。彼の演奏には、技術とか解釈などという言葉がまったく意味を成さないのだ。彼は、そういったあらゆるフィジカルな(地上的な)条件を超えて音楽を構築しつづける人ではないか。