時間という幻想
2019年11月16日
過ぎたことはどんどん別世界(前世)になっていくので、ふとした拍子に「あの出来事は〇〇年前の今日だった」などと気づくといつも不思議な感覚に陥る。つい先日のようでありながら、はるか遠い昔のこと(または誰かの身に起きたこと)のようだ。肉体を超えれば時間など無いのだからその感覚は当然のことだけれど。
プラハの街を歩いていると時間の感覚が消えていく。迷い込んだ路地の突き当りから、ふと見上げた劇場の窓に映る影から、雨に濡れて転がる外れた石畳の下から、時がほどけていく。144年前にこの街で生まれたリルケも、232年前に交響曲第38番「プラハ」を作曲したモーツァルトも、420年前にティコ・ブラーエに呼ばれてこの街へやってきたケプラーも、604年前に処刑されたヤン・フスも、ここでは今なおその気配をありありと漂わせている。