「自分を持たずに、立場と役割を生きること」が大人になることであり、自立することだと幼少期から刷りこまれて、自分がないままになっている多くの人たちが、自分を殺しに殺して社会的上位の立場や役割に達した人によって虐待されるというシステムが、この社会では延々と機能している。それは、家庭で、学校で、組織で、国全体で繰り返されている、支配と依存のシステムだ。
わたし自身も、自分がなかった(持てなかった)が故に、いろんな人たちから、さまざまな形の虐待を受けてきた。しかし、わたしを虐待していたのもまた、わたしと同じように「自分を持つな、立場と役割を持て」と刷り込まれて立場や役割に自己同一化した人たちだった。
当然ながら、虐待する人たち=自分を殺しに殺して立場と役割に同一化した人たちには、自分が虐待をしているという自覚はない。なぜなら、自分が他者から受けてきたことを、当たり前のこととして自分もやっているだけだからだ。虐待は、それが「虐待」であると認識されないまま繰り返されて連鎖する。
このシステムの要点は、虐待をする人も、虐待をされる人も、自分がない状態であることだ。つまり、虐待を受ける人もまた、自分より立場や役割が弱い相手に対して、自分が受けたのと同じことをする可能性がある。そうして、虐待は延々と連鎖する。人は、自分がない状態でいるだけで、虐待という暴力を通す管になってしまうのだ。
「自分は虐待されていた」と認めるのは大きなショックを伴う。しかし、その裂け目からようやく「自分」は現れる。「自分を持つな、役割と立場を持て」と刷り込まれて、自分がないまま漂っていた自分自身を認めることから、虐待の連鎖から抜け出すプロセスは始まる。なぜかというと、それは同時に「自分もまた虐待という暴力を通す管だった、つまり、自分もまた無自覚な虐待者だった」と気づくことでもあるからだ。そこから、影になっていたものを取り込んでいくプロセスがはじまる。
男でも、女でも、父親でも、母親でも、息子でも、娘でも、夫でも、妻でも、教師でも、生徒でも、店員でも、客でも、経営者でも、従業員でも、日本人でも、外国人でも、黄色人種でも、黒人でも、白人でも、相手を一人の人間としてでなく、属性や立場でしか認識しないのは、暴力的なことだ。しかし、自分がない状態でいると、誰もが無自覚にそれをやってしまう。
自分の中にも確かに流れる無自覚な連鎖に気づき、「わたしには自分がない状態だった、わたしもまた暴力を通す管になっていた」と認めることからしか、虐待という暴力の連鎖を止めるプロセスは始まらない。