やってくるもの、還っていくもの ー 普遍と個性 ー 混沌をひととき形にすること
いつからそう感じるようになったかは忘れてしまったが、わたしには、自分の体験は自分だけのものではないという感覚がある。わたしの体験は固有のものではあるけれど、実際にはその中に、わたし以外のすべての人々に共通するものがある気がする。
わたしにとっては、たまたまそういう”体験”だったが、他の人にとっては、それぞれに相応しい固有の”体験”になるのだろう。しかし、そうした形としての現れ方とは異なる次元で、個々の体験の中には常に普遍的なものが流れているように思う。
別の言い方をするならば、どんなことも「わたしが体験した」と同時に「世界(または宇宙か?)が体験した」ように感じられるのだ。または「世界(宇宙)がわたしを通して体験した」と言えるかもしれない。そして、たとえば、ある体験がわたしにとって〇年前のことであったとしても、世界(宇宙)にはそうした時間軸による区切りはない。
常にそういう感覚があるので、たまたま味わった何かしらの体験が、やがて機が熟して言葉などの形として外に現れる時には、「わたしを通してやってきたものが、わたしを通って還っていく」ように感じられる。それが、わたしが「ほどく言葉」「還す言葉」を求め続ける理由かもしれない。
わたしを通してやってきたものが、体験となり、感覚・感情となり、やがて言葉になって、元へと還っていく。そうだとすると、わたしが書く言葉もまた、わたしだけのものではない気がする。言葉の”形”はわたし特有のものであっても、そこには、わたしという個性を超えるものがあるのではないか。
たまたまわたしを通ってそういう言葉に現れたけれど、もしかするとそれは、別の誰かによってまったく異なる言葉になるものだったかもしれない。逆もまた然りだ。そんな風に眺めると、そもそも表現に個性などあり得ないのではないかとすら思える。
混沌に腕を突っ込み(いっそ飛び込んでもいい)、たまたま引き上げたものを、自分という器に入れて食べる。それは、器の中で消化され、変容する。やがて時が来ると、それは何かの形となって器から離れ、ふたたび混沌へと還っていく。書くことも、撮ることも、そもそも生きること自体が、そんな繰り返しのようだ。その最中で、内と外が、わたしと世界(宇宙)が、何度もひっくり返る。
もしかしたら、これは神話性に関することかもしれない。無数の現れ方をするひとつのもの。個と全体に同時に流れるもの。