2019年10月3日
自由意志だとか、好きでやっていると”思って”やっていることの大半は、たまたま身を置いた物理的環境の範疇からはみ出すことなく居場所をキープするための都合のいい思いこみでしかない。外側にある環境と関係に甘んじ、外からやってくるものに機械的に(自分で”自分”だと思っているそれもまた大半が無自覚な機械性でしかない)反応しているだけでは、ノストラダムスの言う「流木のように生きる」在り方からは抜け出せない。
では、どうすれば「流木のような状態」を脱せるかといえば、意図を持って創造する=意志を内から外へ放つことだろう。既存の価値基準や、他者との交換といった外部との関係には一切依らない創造を自覚的に行うこと。それはつまり純粋な創造、創造のための創造と言えるかもしれない。一切の期待から自由な意志的創造。
今朝またこのことが腑に落ちた。「地球上のほとんどの人は自分の未来を作ることができず流木のように生きている」というノストラダムスの言葉をふたたび思い出してのことだった。
自覚的・意識的に「作家」として創造・創作していれば、物理的な条件と制限の中に留まり、他者との関係に依存しながら、その状態にとって都合のいいおはなしやドラマ(という欺瞞)を作り続ける必要はなくなる。というよりも、そんな状態はつまらなくなって、飽きて忘れるだろう。作家を名乗る必要はないし、ましてやそれで金儲けをしているかどうかは関係ない。むしろ、大多数はまったく興味が無いとか役に立たないとかいうようなものをとことん作り極める究極の趣味人の方が、ノストラダムスの言う「流木のような状態」からは抜けている。
以前に、出版社から複数の写真集を発表し、チェコ国内だけでなく他国でも写真展が開催される写真家Daniel Šperl氏から唐突に「君にとって写真は趣味なの?」と聞かれ、どういう意味かわからずきょとんとしていたら、彼が「私にとって写真は完全なる個人の趣味だよ」と言ったのを思い出した。清々しい笑顔で彼にそう言われて嬉しかった。