まず何よりも自分自身であるという実感

友人との会話の中で、祖父が晩年に自分の娘(わたしの母)を「おかあさん」と呼んでいたことを思い出した。祖父には、たとえば幼少期に実の母親に思う存分甘えられなかった等の影響があったのだろうとは思うが、それと同時に、個よりも先に立場や役割がある(むしろ、それしかない)日本社会のパターンを実感した。

立場や役割という鋳型と自分が同一化している上に、相手を名前ではなく役割で呼ぶ習慣があるので、自己同一化がひたすら強化されるのが日本社会のシステムだ。たとえば、わたしの母が「わたしは、誰かの娘である前に、母である前に、女である前に、日本人である前に、まず、わたし自身である」と実感できていたら、状況は違っていただろう。

わたしは、「チーム内のお母さん」とか「このグループの父親役」というような表現にも違和感を覚える。そういう表現を目にするたびに、日本(語)社会には個という概念がないのだなと感じる。役割や立場が個を侵食している。「日本人には親がいない、物理的にはいるのにいない、孤児みたいな心を抱えた人が大勢いる」という友人の言葉は腑に落ちる。