2020‐08‐19 母を看取った後の日本滞在日記

わたしが、一旦日本を去るにあたって唯一気になっているのは、母が飼っていた柴犬「さくら」のことだ。母のパートナーと伯母が「さくらはここに残してほしい、伯父・伯母が世話をする」と決めた。そこで、わたしも彼らの決断を受け入れた。しかし、彼らの様子を見ていると、どうなるかはまだわからない。念のため、他の可能性と計画も用意しておくつもりだ。

自己が不在で、自分のことも他者のこともカウントできない人は、動物のことも「かわいがっている、世話をしている」つもりなだけで、本当にはその動物の存在もカウントしていない。自分を愛せない=自分の存在をカウントできない人は、他者や動物の存在もきちんと認めて愛することはできない。

動物を飼うことは、人間の子どもを育てるのと同じぐらいか、場合によってはそれ以上の労力も時間も(そしてお金も)必要とする。犬はモノではなく、感情を有する生きた存在だ。人間の都合によって動物の存在と命が翻弄されるような状況は、あまりに辛くて黙って眺めてはいられない。