言葉の光度
言葉にすることによって解釈する、理解に落としこむという作業は、整理するには役立つが、解釈からこぼれ落ちたもの、理解からはみ出したものは、無いものとして忘れられてしまう。また、その言葉が自分のものではないことも多く、そうすると、ただ借り物のレッテルを貼っただけになってしまう。
たとえば、花を見て何かを感じたとして、それをすぐ「美しい花だ」と言葉にしてしまえば、その存在も、気配も、出来事も、それによって起きた内外の動きも、すべてがその一言で片付けられ、次の瞬間には消えてしまう。しかし、美しいとはいったいどういうことなのか?そもそも、その言葉は自分のものか?
言葉にせず、ひたすらに見る。花を見るとは、花そのものになることだ。そうしていつか出てくるかもしれない自分の言葉を掘り出し磨いていくしかない。
「僕の求める文学の重要な点は思考の内容ではなく、その思考の光沢とか光度である。文学上の価値は宝石そのものではなく宝石の光度であると思う。」(西脇順三郎『文学青年の世界』)