自分という手癖を捨てて意志を追うこと
2019年10月16日
3歳から高校を卒業するまで割と厳しいピアノレッスンを受けていた中で「これ(この音)が正しい」という教えを受けたことは多々あったが、「こういう音を出したい」と自ら強く意図したことはなかった。残念ながらそういう機会を与えてもらえなかったし、自らもその状態には到達できなかった。
だが、わたしは「音とは意志である」ということをどこかでわかっていた。だから14歳にしてイーヴォ・ポゴレリチに否応なしに惹かれ、彼の音を繰り返し聴いていたのだ。
「音に感情をこめろ」という指導は多々受けたが、「高位感情をダイレクトに通す管になれ」とは教えられなかった。やがてわたしは教えを受けていたピアノ教師(彼女が「ポゴレリチは聞かない方がいい」と言ったことは今でも覚えている)のことを敬遠するようになり、彼女の指示を「つまらない」と感じるようになった。
今改めて実感する。あの頃、わたしは痛烈に「つまらない」と感じ、嫌悪すら抱いていた。しかし、わたしは、母と教師という自己投影タッグ(そして、きっとそれは彼女たちの祖先から脈々と続いてきた連鎖)の影響から逃げ出すことができなかった。そうしてピアノのレッスンやコンクールはわたしにとって義務とノルマになってしまった。
もしも当時の自分に語りかけられるなら、わたしは「音に感情をこめることしか知らないような人の教えに従う必要はない。つまらないなら辞めていい。そんなことよりも、あなたが実際に感じている強烈な意志、その音をひたすら追え。そのためには手癖(自分の思い入れ、自分という思いこみ)などさっぱり捨てきらなければならない。それはとても厳しいけれど愉快だ。」と話すだろう。
これがピアノに限った話でないことは言うまでもない。