青く光る鳥/魚の群れ

今朝は夢の中で鳥の大群が飛び回る様子を見上げていた。無数の鳥たちがまるでひとつの生き物のように形を変えながら飛び回る様子を動画に撮っていたら、やがて鳥か魚かわからなくなった。鳥たちあるいは魚たちは青く発光しながら群舞していた。とても幻想的な光景だった。 先ほど嵐のような雨風が通り過ぎて行った。 北にうっすらと虹が出て、鳥たちの群れが風に乗って飛び回っている。…

描きたいと感じる光と影

やっぱり自分が実際に見た眺め、自分がその場で撮った写真を元に描きたいと感じて、過去数年間に撮った写真を見返していた。そうして絵に描きたいと思う写真を選んだところ、その多くが母が死んだ後に日本で撮ったものだった。空の写真、散歩中に撮った写真。当時はまだ太っていたさくらも写っている。 母を看取り、彼女の死を見届けた後の数ヶ月間は、これまでの人生で最も大変で忙しい時間だった。肉体的に限界を感じることも多々あったのを覚えている。当時の写真を眺めていると、日々自己想起を重ね続けたあの頃の感覚や、さくらをチェコへ連れてくる決断を下した前後の感覚などがありありと蘇る。 とはいえ感傷に耽けるようなことはない。多分あの数ヶ月間はわたしが大きく変容した時だったのではないかと思う。あれはまさに自己脱皮、自己変容の時だった。そんな変容の最中の隙間のような時々に撮った写真には、絵に描きたいと感じる光と影が写りこんでいる。 当時の日記やツイートを振り返ると、わたしはあの頃アークトゥルスのことをよく書いていたようだ。夕暮れ時、さくらとともに散歩をしながら、西の空に煌々と輝くアークトゥルスをよく見上げていたのを…

ゆらぎ、あわい、影に漂うもの

昨日投稿したこの絵に対し、思いがけず多くの反応を受け取っている。これは、わたしがこれまでに描いた中で最もスムースに、迷いも苦戦もなく描くことができた一枚だ。 正直なところ、風景を描くよりも遥かに楽しかった。いや、楽しかったという表現は少し違うかもしれない。全体と細部を観察し、慎重に色を選び、徐々に色を重ねていくすべてのプロセスがとにかくスムースで、まるで自分ではないものに導かれ動かされているようだった。 これはつまり頭(小さい自我の思いこみ/固定概念)が邪魔をしなかったのだろう。どんなものを描く時にでもこういう状態で描けるようになるために絵の練習・訓練をするんだなとわかった。 風景を描きたいわけではないし、かといって完全な空想世界を描きたいわけでもないし、いったいわたしは何を描きたいのかと未熟ながらしばらく自問していたが、わたしはゆらぎやあわいに惹かれるのだと改めて実感した。不定形なもの、見えないけれどそこにあるものにいつも惹かれる。言うなればそれは“影”だ。 ピンホール写真を撮り続けているのも多分同じことなのだろう。以前からわたしはこんな風に言っている。"I've been…

47歳で絵を描きはじめて

有名無名を問わず様々なすばらしいアーティストの作品を見て、彼らの経歴を知ると、早い時期から美術/芸術の経験や教育を受けてきた人たちが思いのほか多いことに気づいた。そして、親からの虐待と支配の恐怖から逃れることだけで精一杯で、自分が何をしたいのかなど思う余裕すらなかった自らの過去を振り返ってちょっと悲しくなったりもしたが、それでもすべてこれで良かったと感じている。 というか、結局すべてなるようになっているのだ。もしもわたしが若い頃に絵を描いていたら、承認欲求や他者との比較に苦しんでいたかもしれない。自尊心を回復し、ようやく自分を生きはじめて、社会の中で実現したいことなどないことに気づき、現在の自分の状態とそれにみあった環境にいるからこそ、やっとわたしは絵を描きはじめたのだと思う。 上手く描けるようになるよりも、なるべく自由に描けるようになりたい。結局わたしにとっては絵そのものが目的ではなく、絵を描くことを通して自分の内外の宇宙を探索し、肉体的に死んだ後の地図や道筋を見つけたいのだ。そうして自分のための神話を作りたい。そう思うと、やはりこのタイミングでようやく絵を描くようになったのは当…