歴戦のジャーナリストとの出逢いとビロード革命

一昨日、たまたま訪れたホスポダで、ビロード革命の中心人物であり、後にチェコの初代大統領となったヴァーツラフ・ハヴェルの私設秘書を長年務めたヴラディミール・ハンゼルさんに出逢った。 仕事を終える少し前に、友人から「ビールを飲みに行こうよ、行きたい場所を選んで」という連絡があり、最初に思いついた店へ行くことにした。入店してすぐ、一角に飾られていたハヴェル氏の写真をカメラに収めたいと思ったが、そばで談笑していた二人に遠慮し躊躇していた。しかし、結局は思い立って片言のチェコ語で話しかけた。その二人のうちの一人が、ハンゼルさんだった。 ハンゼルさんは、プログラマーであり、音楽家であり、音楽評論家・ジャーナリストでもあった人だ。また、氏と一緒にいたペトル・マレクさんというジャーナリストにも出逢った。近々改めて会いましょうと言ってもらい、次の機会を楽しみにしている。 昨年11月には、日本から戻る際に立ち寄ったヘルシンキ空港で、ジャーナリストの伊藤千尋さんに出逢った。あの日、わたしはチェックインの直前に座席のアップデートを決めた。有料座席の購入は初めてだったが、かなり疲労が溜まっていたので…

言葉の光度

言葉にすることによって解釈する、理解に落としこむという作業は、整理するには役立つが、解釈からこぼれ落ちたもの、理解からはみ出したものは、無いものとして忘れられてしまう。また、その言葉が自分のものではないことも多く、そうすると、ただ借り物のレッテルを貼っただけになってしまう。 たとえば、花を見て何かを感じたとして、それをすぐ「美しい花だ」と言葉にしてしまえば、その存在も、気配も、出来事も、それによって起きた内外の動きも、すべてがその一言で片付けられ、次の瞬間には消えてしまう。しかし、美しいとはいったいどういうことなのか?そもそも、その言葉は自分のものか? 言葉にせず、ひたすらに見る。花を見るとは、花そのものになることだ。そうしていつか出てくるかもしれない自分の言葉を掘り出し磨いていくしかない。 「僕の求める文学の重要な点は思考の内容ではなく、その思考の光沢とか光度である。文学上の価値は宝石そのものではなく宝石の光度であると思う。」(西脇順三郎『文学青年の世界』)…

詩的であるには ー 思いを語らないこと

文章であれ音楽であれ絵であれ写真であれ、作品の中に作者の信念(それを証明しようとする思い)が入りこむととたんにつまらなくなるのは、それだ。思いを語るための言葉や音は、どんなに体よく整えられていても重い。…

思いや都合に落としこまない、形にすることを目的にしない

自分の内側であれ、外側であれ、そこに生じて在るもの、そこにある動きや流れを、思い通りに支配しようとか、理解の枠に落としこもうとか、自分のものにしようとせずに、淡々とただ在ることを認め、その動きや流れの行きたい方へ任せているのが、どこにも無理がなくて自然だ。 ビジネスも同じで、アイデアや意図そのものの動きが、呼応するものを引き寄せて、自然とハーモニーを成していく。そこに参加する者が、経験からくる思い込みや都合に落としこもうとせず、アイデアや意図そのものを信頼さえしていれば、その動きは既存の枠をどんどん超えていく。 そもそも、ビジネス(という都合)が先にあるのではなく、アイデアや意図から循環は始まっていくので、これは当たり前のことだ。ビジネスもまた、命が流れた後に残る形(殻)のひとつ。…

習慣を捨て、行動し、自分を動かすプログラムを書き換えていくこと

> 人は自分を騙す。勤勉に騙す。「欺瞞とはおさらば、正直に生きる」と心の底から思った直後に、形状記憶合金のように早くも自分を騙し出す。習慣を維持することが人間の中核のプログラムだ。すぐ行動し、し続けて、このプログラムをこつこつ書き換えることでしかループのパターンは変えられない。 — 木葉功一 (@kibakoichi) January 26, 2020 [https://twitter.com/kibakoichi/status/1221428841328939015?ref_src=twsrc%5Etfw] この木葉功一さんの一連のツイートを読んで思い出したのは、12月にジャーナリストの伊藤千尋さんと話したことだ。それは、自ら行動し、慣れた環境と状態を捨てて変化を起こした人を見て、「すごい!」等と感化され、「わたしも行動しよう!」と思っても、結局は行動しないまま元の状態に留まる人の方が多いという話だ。 わたしが日本での仕事と生活を全放棄したのも、木葉さんのツイートに書いてあるように、何度も体を壊しつづけた挙句、猛烈な虚しさに襲われてどうにもならなくなったからだった。その後すぐ、そ…

怪奇現象が起きる建物から出て、知らない街を歩く夢

今朝方見た夢の話。 わたしは、知らない街にある大きな建築物の中にいた。その建物はかなり古い上に、複雑な歴史を経てきており、夜になるとたくさんの幽霊が現れるということだった。夕暮れが近づいてきたので、わたしは、オカルト現象に遭遇しないうちにそこを離れようと、出口へ向かった。 廊下を歩く間に、建物の気配が変化していくのがわかった。床や天井や壁には、そこかしこに赤黒い染みがじわじわと浮かび上がってきた。恐怖はまったくなかったが、それでも「早くここから出た方がいい」と感じ、わたしはもう一人の女性(友人だったかもしれない)とともに急いだ。 速やかに建物から出た後、わたしたちは大通り沿いの商店街を歩いた。そこは、日本の地方都市のようでもあり、また台湾のようでもあり、それでいて東欧の街のようでもあった。わたしたちは小さなアンティークショップに立ち寄り、所狭しと積み重なる品物を手に取りながら「次にあの建物へ行く時にはこれを持参するといいのでは」などと話していた。 それから、わたしたちは別々の場所へ向かうようだった。彼女の行き先を尋ね(すると、視点が空から見下ろす俯瞰図に変わった)、経路を教えて…

彼/彼女という第三人称

職場のメンバーと言語について話していたら、一人がわたしに「なぜ日本の人は、英語の会話の中でよくhe/himとshe/herを間違えるのか」と尋ねてきた。実際にわたしも、自分では「彼女が」と言ったつもりが「he」と口にしていて、会話の最中に指摘されたことがある。 それで思い出したのは、日本で母を含めて数人で話をしていた時のことだ。母について何かを尋ねられたわたしは、隣にいた母を示しながら「彼女は~」と説明しながら、ふと「日本語の会話ではこういう呼び方はあまりしないかもしれない」と感じた。 「彼/彼女」という日本語の人称代名詞は、書き言葉では目にするけれど、会話の中で使われることは少ない。 さらに同じ同僚から「では、日本語では『彼/彼女』という言葉を使わずにどうやって会話が成立するのか」と尋ねられた。多くの場合、固有名詞(名前)または肩書・役割名が用いられるか、場合によっては指示代名詞が使われている。そして、主語や目的語が完全に省略されることも少なくない。 もしかしたら、そういった母語(日本語)の特徴が、わたしをはじめ日本語話者が英語会話の中でheとsheを無意識に混同してしまう原…

イスラエルで母と落ち合う夢

イスラエルで母と待ち合わせる夢を見た。わたしたちは、居心地のいいカフェのような空間に並んで座り、チェコからイスラエルへ出向いたわたしと、日本から来た母、どちらの飛行距離が長かっただろうと話していた。わたしは、きっとチェコからの方が近いと言った。わたしたちの隣には、修道服を身に着けた女性が静かに座っていた。…