2020‐08‐03 母を看取った後の日記

この忙しい中でも、なるべくカメラ(アナログ、ピンホール)を持ち歩くようにはしているが、実家の周辺では写真を撮る気分にならない。大判カメラで極北の世界を撮ってきたある写真家は、日本にいるとどうも写真を撮る気にならないのだと言っていた。その感覚がわかる気もする。写真を撮るには、写真を撮るだけのための時間と状態が必要不可欠だ。…

2020-08-02 母を看取った後の日記

買い物の途中、近くの廣峯神社へ出向いた。ここの展望室からは、姫路の街と瀬戸内海が一望できるのだが、生い茂る草木に眺めが覆われてしまっていた。以前は帰省するとよく一人でここへ来た。本殿からさらに山道を登って吉備神社と荒神社へ行くのが好きだった。母とも何度も一緒に来た場所だ。天祖父神社の辺りでは、いつものようにたくさんの揚羽蝶が飛び回っていた。…

2020-08-01 母を看取った後の日記

朝早くから実父が電話をかけてきて早くに起こされたり、掃除の最中にまた唐突な弔問があったりと、今日もばたばたしているうちに一日が過ぎた。買い物に出た際、運転中に見た空と雲がはっきりと夏だった。どこか空が広くて、人があまりいないところへ出かけたい。余裕ができたら近場へドライブに行こう。…

2020-07-31 母を看取った後の日記

ようやくからりと晴れたので、母が使っていたリネン類をすべて洗濯し、布団を干して、介護ベッドを消毒した。ベッド周りで彼女が使っていた細々としたものも片付けて、不要なものは整理した。日中にはやはり突然の弔問があり、その度にどうしても作業が中断される。 母の年金に関する手続きを進めるため、年金事務所に問い合わせたところ、市内の年金事務所は8月31日まで予約がいっぱいだという。わたしは8月後半には一旦チェコへ戻るつもりなので、それでは間に合わない。仕方なく、隣の市にある年金事務所の予約を取った。 午後には、母のために借りていた介護用品を返却し、母が癌治療を受けていた病院へ入院証明書を受け取りに行き、残っていた薬類を薬局で引き取ってもらった。そして、市役所へ出向いて、今後様々な手続きに必要な書類を取得し、認印を買いに行った。 今日もとにかくよく動いた。今やっと椅子に座ってご飯を食べている。週末は役所も銀行も閉まるので、各種手続きはしばし中断。ちょっとゆっくりできるだろうか。なるべく早くにやるべきことを片付けて、チェコへ一旦戻る前に、少しゆっくりと過ごせる時間が作れたらいいなと思う。…

2020-07-30 母を看取った後の日記

親が亡くなると、やらなければならないことがとにかく多くて、葬儀が済んでからも休む暇がない。今日もまた一日中動き回っていた。今やっと椅子に座ってしばし休憩している。数々の手続きに加え、決めなければならないこと、出向かなければならない場所がまだまだいっぱいだ。母を看取る前からずーっと睡眠不足。…

2020-07-29 母を看取った後の日記

母の死を知った近所の人たちや、老人会(母は老人会の世話役をしていた)会長の訪問を受けたり、保険会社等から電話がかかってきたり、葬儀会社の担当者が集金に来たりと、なんだかんだと今日も一日中忙しい。冷蔵庫の中に何もないので買い物にも行かねばならず、銀行や郵便局にも行かねばならず、朝からずっと動き回っている。今日は雨が降ったりやんだり、お天気雨も何度もやってきた。…

2020-07-29 看取り日記

「魂」とか「霊」とか「愛」とかといった抽象的な言葉を、それが何を意味し、何を指すのか、自ら追求したことがないまま口にするのはあまりにお手軽で、それは時に、自他に対する嘘にもなり得る。それが本当に自分の中から出てきた言葉かどうか、そして、それが無自覚な思いこみや機械的な反芻ではないかを自らに問いかけると、安易に用いることはできない言葉/表現だ。 自分自身で考え抜いた言葉ではなく、抽象化された記号としての言葉をただ組み合わせただけの表現は、結局のところ、それを使った本人が「自分がそう口にした /書いた」と満足するためのものでしかない。それは、相手の存在も状態も、自分自身の内的な動きも、真にカウントしてはいないということだ。何でもかんでも即座に言葉=記号にして片付けてしまうのは、本質や実体に向き合わないための欺瞞ではないか。 自分が実は抽象化された記号を組み合わせて「おはなし」を作っているだけだったことに気づくと、安易に言葉にすることがいかに多くのことを隠蔽してしまうかが見えてくる。記号化された言葉は、実体のある存在を記号化してしまう。…

2020-07-28 看取り日記

率直にいうと、わたしには「悔やみ」はない。まるで木が枯れていくように、徐々に体内の水分を排出しながら静かに死に向かっていった母の姿を、すぐ傍で見守ることができたのは、素晴らしい体験だった。人もまた、他の動植物と同じく自然のままに生ききって、自らのタイミングで肉体的な死を迎えるということをはっきりと目の当たりにした。死んでいった母本人も、わたしを含めた彼女を取り巻くあらゆる環境も、命の流れと呼べるような力によって運ばれているようだった。 そして、「ご冥福をお祈りします」という定型文的表現には「とりあえず何か言葉にしなくては」という軽さを感じると同時に、祈りという"思い"を押しつけられるようでもあって、違和感を覚えるのが正直なところだ。実際に、わたしは使わないことにしている言葉のひとつでもある。そもそも「冥」とは「死後の世界」という意味を持つ中国仏教に由来する思想だし、「冥福」を目指すかどうかは死んだ本人が選択することだ。…