ある女性からのメールと、それに対する返答

> 「最近、自分がわがままだと言うことを思い知らされたことがあり、直したいなと思って、誰かに話を聞いてほしいなと考えてました。Rさんは今はセラピーの活動はしていないのでしょうか?」 「わがままでいいのではないでしょうか。わがままであることを自覚していれば、そういう自分にとって相応しい関係や環境が作れるわけですから。自分がわがままであることに無自覚なまま、他者に期待したり、人や環境をコントロールしようとすれば、苦しみが生じるでしょうけれど。 どんなことにおいても、自覚的であることが重要だと思います。自覚的であるとは、自分が思っていること、自分が感じていることが、本当に自分の思考や感性なのかということに、いつも意識的であることです。世の中には、人格や役割を生きていることに無自覚で、自分ではない感情や思考に自己同一化している人がたくさんいます。そして、そういう人たちは、自分の状態を自覚していないから、他者にも無自覚に同じことを求めます。 そういう社会においては、自分で自分を自覚し、わがままな自分を引き受けて生きると、孤立するかもしれません。しかし、無理をして小さな社会の中に居場所を確保し…

実存と架空の間

友人が書いている小説の中に、わたしと同じ名を持つ人物が登場する。しかも、その人物像やディテールはどことなくわたしに似ている。実際に、友人からも「わたしをモデルにした」と聞いた。物語の中の彼女はかなり奇天烈な人物だけれど、だからこそおもしろい。早く話の続きが読みたいところだ。 他者(の創作)の中で「わたし」の存在が自由に変容していくのはなかなか楽しい。たとえば、誰かがわたしに対して思いもよらぬイメージを抱いていたとしても、「そういう風に見えるのか」と思うだけで、嫌な気分にはあまりならない。むしろ、変幻自在な謎キャラクター、実存と架空の間ぐらいでいられた方が自由でおもしろい。以前に「プリンスみたいに謎な記号を名称として使って匿名になりたい」と思っていたこともあった。…

「人格は軽くしておくのがいい」ー 「わたし」とはさざなみのようなもの

この松村潔氏の動画の中に出てくる「人格は軽くしておく」という言葉はとてもわかりやすい表現だ。「これがわたし」と自分で思っているようなことは、実は自分がそう思いたいだけなので、あまりこだわらないのがいい。むしろそこはあまり目立たず無名な方が、単独で身軽に枠や境界を超えやすい。 「社会内相対的自己の人格に特別さを求めるのは割と無駄なこと」というのもその通りだ。社会の中の歯車(役割)としての自分にどれだけ特別な個性を求めても、その枠組みの外側から見ればそこに大した違いはない。地球の外から見れば、地球上の存在に個性の違いなどほとんどないのと同じこと。 「わたし」とは流れる川の水面に浮かぶ一瞬のさざなみのようなもの、というイメージがわたしの中にはある。瞬間的に浮かんではすぐに崩れて消えるもの。本体は流れる水の方だ。…

祖母、母、わたし ー オリオンの三ツ星

このところ、既に他界している母方の祖母がよく夢に現れる。夢の中の祖母はいつも、わたしから少し離れたところにいる。彼女の顔は見えないけれど、その存在ははっきりしている。しかし、わたしたちが言葉を交わすことはない。 ふと思い立って祖母の出生図を見てみたら、太陽、月、水星、木星、天王星が魚座に集まっていて驚いた。太陽と木星、そして水星と天王星が、魚座でぴったりと合わさっている。金星、土星、海王星は火のグランドトラインを形成している。土星座には天体がひとつもない。 わたしと母が3月3日生まれ、祖母は3月4日生まれ。三人とも同じ干支の生まれだ。だから、三人の太陽はほぼ同じ位置にあり、水星と金星、木星の位置も近い(わたしだけ水星が水瓶座にある)。母方の家紋がオリオン座の三ツ星(三姉妹)に由来すると知って以来、三代目のわたしで完了・離脱するのだと思っている。最近よく夢に祖母が現れるのも、あちら側からのメッセージだ。…

鳩尾に太い管がついた夢

また夢の中で身体を改造された。今回は、鳩尾のあたりに太い管が装着されていた。人工皮膚で覆われた管は一部が蛇腹になっていて、腹から突き出てすぐ垂直に曲がり、煙突のように上に向かって伸びていた。管が出ているあたりの皮膚に引き攣れるような感覚はあったけれど、痛みや不安はまったくなかった。 わたしは、病院の診察室と手術室があわさったような広くて明るい空間で、白衣を身に着けた男性から術後の最終処置を受けていた。その後、どのように場面が切り替わったかは忘れてしまったが、次に覚えているのは、大きな公衆浴場かプールの更衣室に似た空間でのシーンだ。わたしは、ロッカーにしまってあった服に着替えようとしていた。そこで、鳩尾から管が出ているため、そこにある服はどれも着用できないことに気づいた。そして「管があっても着られる服を買わなきゃ」と思っていた。周囲には様々な年齢の女性が素っ裸でうろうろしていて、時折むっとするような体臭が漂ってきた。 この場面の前か後かは覚えていないが、わたしは、何かの舞台のリハーサルに参加するため、現場へ向かう支度をしていた。公共施設の給湯室のような場所で、わたしは朝食用の紅茶を淹…

創作物=作品とは、自覚的に成された排出物のこと

食べて、消化し、排出する。創作もまさにこのサイクルだ。形として出てきたものは、文章であれ、絵であれ、すべては食べられ、消化され、排出されたもの。だから、それそのものに、良い悪いや、正誤の区別はない。名作だろうが駄作だろうが、根本的には排出物であることに違いはない。しかし、だからこそ、その排出がどのような意識をもって成されるかによって大きな違いが生じるとも言える。なぜその排出が必要なのか、そして、どんな形に排出するのか。そのことに自覚であるかないかによって、排出物は文字通り宝にもなれば、場合によっては糞にもならない。 ただ、いかに自覚的に注意深く形作られた排出物も、万人にとっての宝にはなり得ない。ある人にとっては糞でしかないものが、別の人にとっては至宝の作品になることもある。排出された形=創作物の価値は常に相対的だ。そして、それは、創作者(排出者)自身の満足や納得とはまったく別のことだ。 自覚的であること、これに尽きる。自分がどんなものを食べ、どのように消化し、どんな形に排出するのか。すべてのプロセスに自覚的であること。何のためかといえば、自分に気づき、自分が納得するためだ。そうして…

とける、まざる、ながれる

今日も一日雨が降ったりやんだり。空は終日薄い灰色で、窓の外も、部屋の中も、しんとして仄暗い。ソファーの上で横になり、時おり窓を打つ雨の音にぼんやり包まれていると、いろんな時、さまざまな場所で、ひとり静かに横たわっていた雨の日の記憶がいくつも蘇ってくる。 「雪解け水があれもこれもいっしょくたにして押し流していくような」と昨日友人が言っていたけれど、わたしの中もそんな感じだ。些細な記憶の断片がとりとめもなく浮かんでは、ごちゃ混ぜになって流れていく。あらゆる色と感触がゆるゆる溶け合っていく。 「そういえば、そんなこともあったっけ」と思いはするものの、どの記憶もいつか読んだ物語の中の情景のように感じられる。まるで、小説を後ろから読んでいるみたいだ。どんなドラマも後になって振り返ればすべてが筋書き通り。時が未来から過去へ流れているように感じられるのも当然だろう。 すべては創作だったんだ。自覚しているかしていないかだけで。あれもこれも全部が自分だ。そうすると、そもそも自分とは何なのだ?と思う。自分とは、肉体をして此処に在る個体ではないことだけは確かだ。…

やってくるもの、還っていくもの ー 普遍と個性 ー 混沌をひととき形にすること

いつからそう感じるようになったかは忘れてしまったが、わたしには、自分の体験は自分だけのものではないという感覚がある。わたしの体験は固有のものではあるけれど、実際にはその中に、わたし以外のすべての人々に共通するものがある気がする。 わたしにとっては、たまたまそういう”体験”だったが、他の人にとっては、それぞれに相応しい固有の”体験”になるのだろう。しかし、そうした形としての現れ方とは異なる次元で、個々の体験の中には常に普遍的なものが流れているように思う。 別の言い方をするならば、どんなことも「わたしが体験した」と同時に「世界(または宇宙か?)が体験した」ように感じられるのだ。または「世界(宇宙)がわたしを通して体験した」と言えるかもしれない。そして、たとえば、ある体験がわたしにとって〇年前のことであったとしても、世界(宇宙)にはそうした時間軸による区切りはない。 常にそういう感覚があるので、たまたま味わった何かしらの体験が、やがて機が熟して言葉などの形として外に現れる時には、「わたしを通してやってきたものが、わたしを通って還っていく」ように感じられる。それが、わたしが「ほどく言葉」…