撮影現場、美術館、昔の恋人の嘘、バスタブの中の虫

昼寝の間に見た夢の中で、わたしは古い小さなスタジオのような場所にいた。セットや足場が組まれた中でたくさんの人が動き回っていて、古い知人が撮影監督として指揮をとっていた。わたしは出演者として参加しており、大きなぬいぐるみと話をしたり、高いところに吊られた雲に乗っかったりしていた。時は既に深夜だったが、カーテンの隙間から外を見ると、敷地内では近々開催される展示の設置作業が行われていた。広い庭園を囲むように建つガラス張りの建築物の中に、長いレールが敷かれようとしていた。わたしは撮影の合間にラップトップを開き、昔恋人だった男が必要もない嘘をついているとSNSに書き込んでいた。その後どのように場面が切り替わったかは忘れたが、わたしは古い木造の家屋を訪ねていた。水色の扉があるその家には知人女性がいた。バスタブの中に水を貯めていると、虫が飛んできたので、わたしは虫たちを水の中に追いやって排水溝へ流そうとした。大きな蛾のイメージがアップになり、思わず叫んで目が覚めた。…

怒りは自分の中の無意識な抑圧や捻じれを示唆している

自分の体験を振り返っても、この通りだ。以前のわたしはよく怒りを感じていたが、ある時、怒りは自分の中の抑圧や捻じ伏せによって生じていることに気づいた。実はわたしは、無自覚な期待や欲求がかなえられなくて悲しかったのだった。そう気づいてから、怒りを感じることは少なくなった。 この無自覚な期待や欲求は、他者に対してだけでなく自分に向けられていたこともよくあった。「~してほしい」「~ねばならない」と自分に求めては、そうできない自分に怒って(悲しんで)いた。たとえば誰かに対して「わかってくれない」と怒りを感じるのも、実は自分で自分を否定していたからだった。 > 感じ切られることを求めている感情は悲しみであって怒りじゃない。 — 木葉功一 (@kibakoichi) February 10, 2021 [https://twitter.com/kibakoichi/status/1359601141294657538?ref_src=twsrc%5Etfw]…

共感と愛は別のこと

共感による連帯と、愛する(=存在そのものを認める)ことはまったく別のことだ。でも、自分の肉体がしっかりと自らの意識で満ちていないと、人はその欠乏を他者との共感で埋めようとする。それはただの自己投影であり、ある種の憑依でもあるのだが、自分の肉体が自分の意識で満ちていない状態だと、人はそうした欠乏に起因する愛着を”愛”だと都合よく思いこむ。 > 劣等感を失くすには、自分の意識を自分の体の隅々にまでピッチリ入れる。誰にも自分を植民させない。植民もしない。憑依をやめる。 — 木葉功一 (@kibakoichi) February 10, 2021 [https://twitter.com/kibakoichi/status/1359466739101171712?ref_src=twsrc%5Etfw] > 正直、そういう横の共感みたいなものはみんなロボットに任せてしまいたい。 人形は好きです。人形は幾らでもつくるけれど、人形にはならないぞという冷たい人形愛。 — つくばね@アニメ勉強 (@8dollblowers) February 10, 2021 [https://twitter…

2021-02-07

日本で暮らしていた頃は、週に5日出勤して、一日8時間以上(大しておもしろくも楽しくもない)仕事をした後、さらに買い物に出かけたり、どこかで食事をしたり、人と会ったり、占いやセラピーをしたりしていたけれど、今となっては、当時の自分はどうやってあんなにも多くのことを毎日やっていられたのだろうと不思議にすら思う。 「やれていたことができなくなるのは発展、縛りから自由になること」という友人の言葉を思い返す。 自分とさくらの世話をして、自分のペースで仕事をし、自分がやりたいことだけに専念して、疲れたらすぐ休み、なるべくたくさん眠る。それだけであっという間に日々が過ぎていく。たとえば、空を眺めながら眠っている間に見た夢を振り返ったり思いに耽ったりしているだけで気づけば数時間が過ぎている。さくらとともに散歩をしながら写真を撮っているだけでやっぱり数時間が過ぎている。 これでいい。…

できていたことができなくなるのは縛りから自由になったということ

自分は特に食べたくはないけれど誰かのために料理をするとか、少しも楽しくはないけれどお金など何かを得るために技術や労力を提供するとか、過去には確かにやっていたことが、今はまったくできなくなったよと話したら、友人は「やれていたことができなくなるのは発展だ、縛りから自由になることだ」と言った。 以前のわたしは、立場を保つためだとか、身を建てるためだとか、何か他の社会的な目的のために、本当は楽しくもないことややりたくもないことを自分に強いていたのだ。 「この社会で自分が実現したいことを思い出す」と言う文章をたまたま目にして「”社会の中で実現したいこと”って、もう無いな」と思った。ずっと自分に無理を強いながら社会の中の相対的な自己を生きてきて、もうそれにすっかり飽きて嫌になってやめたのだから、当然のことだ。…

猫が話しかけてきた夢

夢の中で知らない街を歩いていたら、突然猫が話しかけてきた。くりくりと可愛い目をした小柄な雌のキジトラ猫だった。猫は「ねぇ、あそこに置いてある青いバッグの中にナイフが入っているのを見つけたよ。危ないよ。」と言った。前方の花壇の脇に、青いトートバッグが放置されているのが見えた。わたしは、もしかするとそのバッグは意図的にそこに置いてあるのではと思い、念のため警察に知らせることにした。しかし、近くに交番は見当たらなかった。わたしは、猫と二人の女性たち(一人は友人だった)とともに、バッグの持ち主がやってくるかどうか様子をうかがうことにした。場面が切り替わり、わたしは女性たちとともに高架歩道を歩いていた。前方にはバッグの持ち主である男性が、もう一人の男性とひそひそ立ち話をしていた。彼らは怪しい雰囲気を纏っていたが、何か事を起こしたわけではないので、わたしたちは素知らぬふりを装いながらも警戒して彼らの横を通り過ぎた。 昨夜は寝る前に突然「ドゥーベ」という名が浮かび、ドゥーベっておおぐま座、北斗七星の恒星だったっけ?と思いながら眠りに就いたのだった。…