「自分のため」の行為が、自分のみで閉じてしまうか、それとも、自己を通って他者へ、そして普遍へと通じていくかは、自己想起の有無にかかっているのだろう。はじめは自己の慰めでしかなかった創作も、そこに自己想起が伴えば、やがては普遍へとつながる道になり得る。
最近味わった違和感について考えているうちに、そう思い至った。自己想起なきまま、つまりは小さな自己に閉じたまま作られた創作物は、どこか真似事に終わり、虚しい。自己想起なきまま、流木のように物質世界の時間に流されているだけの人の言葉も、上面だけで空虚だ。そして、そうした虚しい行為に費やす時間は私にはもう残っていないし、そうした虚しい人や事に関わっている暇もない。