金輪際
金銭と不動産にまつわる母方の揉め事を長年眺めてきて、金も、不動産も、ある種の罠のようなものであり、それらに囚われるのは呪いのようなものだと感じていたが、父や父方の祖母の生前を振り返っても同じように感じる。彼らはみな、自らその罠に陥り、自ら呪いをかけて、そこに留まった。そして、わたしはそんな彼らの連鎖に巻き込まれたくなかったのだ。
父が生きていた頃から、わたしには相続放棄の一択しかないと考えていたが、実際に父が死に、これまでの経緯を改めて振り返って、やはりそれしかないと考えが定まった。そして、2022年10月に、父がかけてきた電話の内容に呆れて言葉を失い、「金輪際この人に関わってはならない」と静かに深く肚に落ちたことを思い出した。
家中の収納を服やモノで埋め尽くしていた母も、足の踏み場も無いほど大量のモノで溢れかえる家で暮らす伯母家族も、過去に自分が暴力をふるうなど酷い扱いをした妻のことを「それでも自分は彼女から愛されている」と言った母の重婚的内縁の夫も、みな寂しい人たちだった。実際に、母も母の内縁の夫も、死を前にして「寂しい」と漏らした。
彼らは自身の寂しさをモノや金や人で埋めようとしていた。しかし、彼らが内在する寂しさは物質で埋められるものではなかった。何かが無いから寂しいのではなく、在るものを無いとするから寂しいのだろう。彼らはみな自分が無い人たちだった。それは、彼らが自分を無いものにしていたということだった。
父も、父方の祖母もまた、同じく寂しい人たちだった。自分を持つことができず、自分を築こうとせず、自分に気づくことなく、自分を生きることを拒否した人たちだった。それはまた、犠牲者の立場から抜け出せない/変われない人たちだったともいえる。メタモルフォーゼを拒み、物語の中に埋没した人たち。
わたしと母は、わたしが徹底して彼女から距離を置き続け、境界線を明確にしたことによって、最後には互いに個別な存在として認め合い、対等な関係を築くことができたと思っている。そして、以前のわたしは、父に対しても同じような相互変化を期待していた。しかしある時、それは不可能だと気づいた。
自分を持たず、自らを生きることを拒否して、酒とギャンブルと妄想の物語の中に埋没し続ける父とは、最後まで対話が成立しなかった。なぜなら彼は、彼自身のことも、他者のことも、何も見えていなかった/見ようとしなかったからだ。それはつまり、彼とわたしは、住む世界が違うということだった。