馬に初めて触れたときのこと
初めて馬に触れたときのことは今でもよく覚えている。あれはメスの元競走馬だった。わたしは彼女のそばでじっと黙って立っているだけだったが、そこには言葉を超える循環が起きているようで、説明しがたい静寂と安堵感があった。自他の境界があのように溶けていく感覚は、人との間では味わったことがない。
思えばあれは、勤務先を突然解雇された直後で、いきなりやってきた無職状態に戸惑いながらも解放感を味わっていた頃だった。そして、あれはまた、過去の虐待経験から回復しつつある時期でもあり、また、自らの自他境界線の曖昧さに気づきはじめた時期でもあった。
振り返ってみると、あの頃からわたしは少しずつ「諦め」はじめたのかもしれない。今いる社会の中で居場所を見つけて生き延びなければならないとか、役に立たなければならないとか、そういった相対的な自己の思い込みや執着にひとつひとつ気づいては、あきらめはじめていったように思う。
マルセイユ・タロットに最も親しんだのもあの頃だ。やがて、白昼夢のようなビジョンを日常的に見るようになり、見慣れない場所やものが現実に重なるようにして見えることが増えていった。職場で突然、視界に映るものすべてが無数の粒子のゆらめきとして見えたのも、そのすぐ後のことだった。
あれからの数年間、わたしは何度も鬱状態を繰り返しながら、「人としてある」ことへの執着を振るい落としていったのかもしれない。そうして、自らの思い込みがことごとく嘘だったと気づいてすべてを放棄し、野垂れ死にでいいじゃないかと覚悟したところで、弾き出されるように日本を飛び出して、いまに至る。