精神の地平線

ほんとうにほしいものなどなにもないことにきづいてからがはじまり

これは、10年前に書きとめていた短歌形式のメモ。

先日パスポートを更新し、10年なんて瞬く間に過ぎると改めて実感した。次の10年はさらに急速に過ぎるだろうし、わたしもあっという間に死ぬだろう。それまでにどれだけ訓練を積めるだろうかと考えてしまう。時間はあるし、自ら生み出すものだが、余所事にかまけている時間はまったくない。

以前にも投稿した松村潔氏の過去の投稿からの抜粋を読み返す。

物質世界は一方的な時間の流れの中で作られている。これは変更のきかない川の流れのようなもので、こうなればああなるという因果律がはっきりしている。地上的な欲望、夢、願望はすべてこの一方的な時間の流れの中で形成されている。子供は成長して大人になる。お金はためると増える。運命は変えられるかという議論が時々あるが、そもそも人生の夢や願望そのものが、この決まったコースの中だからこそ形成できているのだということに気がつかないといけない。エーテル体は反対の時間の流れを持っている。なので、このエーテル体の流れを物質界にぶつけると、対消滅してしまい、物質界の一方的な時間の流れの中でのみ成立してきた価値観はあらかた死んでしまう。未来を変えていく切り替え器は、この対消滅の現場にあるのだが、その現場では現世的な希望、目標、夢があらかた死んでおり、それらはどうでもよくなっているということが多く、この現場でも生き残る志が未来を作る。ノストラダムスは、大半の人は運命に流される流木のようなものだと言っているらしいが、対消滅ポイントで杭を打つことができる人は、パラレルワールドを次々と乗り換えて望みの世界に行く。わたしは日食が切り替えに使われると言ったが、その前にそもそも物質界の価値観が死んでも生き残る志、意図がもっとも重要である。本当は何がしたいのか?ということが重要。そしてこの通りの世界ができあがる。

「物質界の価値観が死んでも生き残る志、意図、本当は何がしたいのか?」とあるが、実際には、物質世界における願望があらかた死んだところで、ようやく「本当にしたいこと」は浮上してくる。徹底的な諦観、絶望、謂わば野垂れ死を覚悟したあたりでやっと見えてくる地平線。そうしてその意図をもって“時間”を対消滅させて、次の世界(層)へ進んでいく。