自我という膜を超えて
身体が眠っている間、精神は肉体という制限を超えて自由に旅をしている。そうして精神は、個々の分離や時空の制限を超える体験、地を這う肉体に閉じた自我の理解を超える体験をしている。実際の感覚としては、精神が肉体という枠からはみだして自由に広がっていくようだ。
だから、夢を見ている時に無理やり起こされるのは不快だ。せっかく肉体という枠をはみだして地上の自我を超える宇宙を味わっていた精神が、突如また肉体に引き戻され、閉じ込められてしまうからだろう。時にはショックのあまり、目覚めた後も呆然として、一体何が起きたのかとひどく動揺してしまうこともある。
夢を途中で妨害された時のあのショックを味わうたびに、現実と夢、ひいては生と死(眠りを肉体の仮死状態としてみなした場合)を切り離し、一方だけを重視するのは間違っていると思う。夢を単なる脳のはたらきとしかみなさずに軽視するのは、半分しか体験していない=半分しか生きていないようなものだ。
眠りの間に見ている夢そのものは、肉体に属する個の自我を超える体験だが、目が覚めた後に残る夢の記憶は、既存の知識や経験に基づいて“理解したがる”自我によって編集されてしまう。だから、当然ながらそこには多くの取りこぼしが生じる。
“わたしが見た夢”というものはあっても、“わたしの夢”というものは厳密にはあり得ないと思う。夢は、たとえば集合的無意識の中へ飛びこむ、あるいは融合するようなものだからだ。昔の人が、夢で見た場所に神社を建てたり、夢告に導かれたりしたのも、それが自我を超える体験だとわかっていたからだろう。